給水塔が取り壊される。
この国を走る列車の主力が蒸気機関でなくなってから既に久しい。ディーゼルや電気を動力とする列車に給水塔は必要なく、全国で不要になった給水塔が次々と取り壊されているが、その給水塔は少し特殊な経歴を持つものだった。
「会ったことはあるのか?」
「いや、所属が全く違ったからね」
先を行く金色の髪が、ひょこひょこと跳ねるのを眺めて答えながら男はゆっくりとその後を追いかける。道案内を頼んだ相手は、突然の訪問だったというのに快く引き受けてくれた。
私的な、というよりは今の自分とは関わりのない件だからと、いつもの制服ではなく私服で行ったことも要因のひとつかもしれない。
そのあたりの心情を察したのだろう彼は、上官に対する態度ではなく年下の地方路線に対するような接し方をしてくれている。それはとても、ありがたいものだった。
自分は世界最先端の技術を誇る高速鉄道の「山陽新幹線」ではなく、その開業の直前まで走っていた国鉄の「篠山線」としてこの地へ来て、廃止されたばかりの線路跡をのんびりと歩いている。
かつて千葉県内には、帝国陸軍所属の演習線を所有する鉄道連隊と呼ばれる部隊が存在していた。
二人が辿り着いた先、使われなくなって少しずつ荒廃をはじめている赤煉瓦の建物と共に立つのは巨大な給水塔。先日廃止になった国鉄の千葉レールセンターが譲り受ける前は鉄道連隊が所有していたものだ。現在は隣接する学校が管理しているのだという。
戦争が終わって、軍部が解体されて、鉄道連隊も消滅した。それは戦争の終焉によって大きな役目を失い、やがて廃線へと追い込まれた篠山線と重なるところがあるように思われた。けれど。
「俺たちはあくまでも軍需路線。敷設計画に軍部の意向が含まれて、軍事的な色が強かったとはいえ、基本的には他と変わらない路線だった。けれど彼らは正真正銘の、軍部の路線だったから」
終戦と共に、有無を言わせず消滅した鉄道連隊の演習線と、普通の地方路線として人々を運ぶために走り続けた篠山線などとの明確な違いはそこだ。
だから一部の演習線が転用されて、戦後すぐに私鉄になったと、後から聞いた時には驚いた。
「俺は廃止になるのになぜ彼が走っているのだろうかと、それを聞いた時には恨めしく思ったよ」
「あの土地は、軍部が手放してから開拓が始まって人が増えたからな」
「必要とされたんだろう? 不要の赤字路線と呼ばれ、廃線が決まっていた身としてはもう、そのことが羨ましかったんだよ」
今思えば自分だって、僅かにとはいえ必要とされてはいた。けれど「お国のために」というわかりやすい、大きな役目を突然に失って、そのことを忘れてしまっていたように思う。
人々の日常に寄り添うものであることの、尊さを忘れていた。
――『かみさま』を見たのはちょうどその頃のことだ。
軍部の弾丸列車計画からの転用とされる新幹線0系は、まるで地上を走る零戦。使命が変わっても美しく走り抜けるその姿は篠山の目に眩しく、失ったと思っていた道の先を照らすひかりのような存在だった。
軍事的使命を背負った存在から、人々の日常のための存在へ。過去の自分を廃止へと追いやったその変化を、『かみさま』と出会ったことで素直に嬉しいと思えるようになった。
この国にはもう、軍需も軍用も必要ないのだと。
「だってこの国はもう、戦争なんてしない。人々がそれを望んでいるから」
そうして篠山線は廃止になったのだと思えば、随分と気持ちは楽になった。もちろん数は少なくとも、確かに必要としてくれていた人々がいたことは忘れない。忘れないまま、光の導くままに新しい道へ、山陽新幹線として走ることを選んだ。
軍部の演習線が、人々に望まれて私鉄の路線となったのも同じこと。
だからこそ、不要と判断されて、誰にも望まれることなくひっそりと消えてゆく給水塔の姿を見ておこうと思った。
姿勢を正し、肩を張って、しばらくすることのなかったカタチの敬礼を贈る。ゆっくりとその手を下ろしながら、山陽は苦笑を浮かべた。
「いつかこの敬礼の仕方も忘れるのだろうか」
敬礼だけではなく、自身の過去にまつわるものをゆっくりと忘れて行くのだろう。めまぐるしく変わる日々の中で。かつての自分が、何時の間にか本来の役目を見失っていたように。
山陽より篠山よりはるかに年上の総武線は、苦笑を浮かべる相手をまっすぐに見上げる。
「そんなもん、忘れたって失うわけじゃねぇし。誰かに聞かれりゃ思い出すだろうよ」
「高速鉄道という立場上、そう簡単に答えられるような過去ではないよ」
「それでも話したいと思える相手に話せばいいだろ」
「そんな相手がいるだろうか」
「今はいなくても、いつか現れるかもしれないさ」
いつか。知りたいと請われ、教えたいと思う相手が。
「その時に、ちゃんと答えられるかな」
「大丈夫だろ? あんたは今も走っているんだから」
消えた鉄路のその先を、今も走り続けている。
廃線は断絶ではなく、その先にあるはずの新しい再生への一歩だ。埋れて見えなくなってしまっても、そこに鉄路があったという事実は変わらない。誰かが忘れてしまっても、きっと別の誰かが覚えているから。
「それでも不安なら残しておけばいいんじゃねぇの? 文字でも写真でも、手段はいくらでもあるだろ」
「君は?」
「俺はいーんだよ。例え俺が忘れても野郎共が覚えてるから」
「ああ、君らしいね」
そう言って目を細めた男に、総武線はニヤッと笑ってみせた。
「山陽上官の顔に戻ったな」
「そうかな?」
確かにここに来たのは山陽と呼ばれる男ではなかったが、しかし篠山でもなかった気がする。直前までの自分は、それでは一体誰だったのだろうかと思いながら、山陽に戻った男はポケットから使い切りカメラを取り出した。
ジージーと小さなつまみを親指で回してから、カシャっと軽い音を立ててシャッターを切る。レンズの先は目の前の給水塔だ。
「アレも撮っておくのか」
「君はきっと忘れないだろうけど、俺も覚えておきたいから」
いつか誰かに語る時に、今の気持ちも思い出せるように。
*
「相変わらず睫毛長いのな」
下から見上げる角度で、今更気がついたかのようにそんな言葉を口にする山陽に青年は笑った。
「昔も、ですか?」
「昔っから」
綺麗な顔してるよなあと笑えば、何故か今度は苦笑を浮かべた。そのまま両手を伸ばして、棚の上にある大きなダンボールを手に取って見せる。
「これですか?」
「あ、それそれ!」
山陽も長身の部類に入るのだが、踏み台無しではわずかに手が届かない高さのそれを、青年は易安と取り上げてテーブルに下ろした。
「ありがとな! 助かったよ」
どういたしまして、とにこりと笑った青年は、山陽がガサゴソと漁るダンボール箱の中身を興味深げに覗き込む。あったあったと山陽が取り出したのは青年に頼まれていた古いマニュアル本で、けれど当人はその下にあった一葉の写真を手に取った。
「これは?」
「ん? ……ああ、こんなところにあったのか」
それはかつて、山陽が撮影した古い大きな給水塔の写真だった。高速鉄道として生まれ育った青年にとってはあまり目にすることのない珍しいものであろう。
「これは国鉄が解体される数年前に、千葉で撮ったものだよ」
「JRになる前、ですね」
そうか、この青年はこの給水塔が作られた戦前どころか、取り壊された国鉄の時代すら知らないのだ。そんな青年がこれだけ立派に成長するほど遠い昔の話なのだと感慨深く見つめていた写真を、急に取り上げられて山陽は驚いて顔を上げる。
「不公平です」
「へ?」
「僕は貴方の過去を知らないのに、山陽さんばかりが昔の、子供の頃の僕を覚えていて。不公平だと思います」
予想もしていなかった言葉に思わず間抜けな声を返した山陽を、青年はまっすぐに見つめた。その真摯な視線に思わずたじろいでしまう。
そんな山陽の手に古い写真を持たせて、その手を両手で包み込むように優しく握った。白手袋越しでもじんわりと、ゆっくりと手のひらの体温が伝わる。
「僕も貴方の過去が、昔の貴方が知りたいです」
「そんなにキレイなもんじゃないし、もしかしたらがっかりさせるかもしれないけど……それでも知りたい?」
かつての篠山に課せられた大きな役目は、戦争へと繋がるもの。それはどんな理由をつけても、誰かの手のひらに宿っていたはずの、あたたかな体温を奪う無慈悲な暴力。
敗戦によってそれに気づいてしまって。けれどそれを過ちだったと認めることは、自身の存在をも否定することと同じことで。それでも新しい道を見つけて、今度は誰かの手と手を繋ぐために、日々を走り続けている。
「どんな過去があったとしても、それがあるからこそ、今の貴方があるのだと思うから」
彼になら、話しても良いのだろうか。別に隠しているわけではないのだから少し調べればすぐにわかることだし、彼のことだからある程度のことは既に知っているはずだ。それでもそう言って問いかけてくる彼は、自分が語るものを知りたいのだろう。
彼が何も知らないのなら、知らないままでも良いと思っていた。新しい道の先で生まれた彼が、はるか昔の過ちを知らない、キレイなままでいるのも良いと。
けれど彼自身が知りたいと望むのなら、自分は答えなければならないのだろう。
なるほど総武が言っていたのはこういうことだったのかと納得する。どうやって、何を話そうかと写真を見ながら考えをめぐらせれば、遠い日々の記憶が次々と蘇る。
「どこから、話そうか。なあ、北陸。何から聞きたい?」
「それならこの写真のことから。どうして自身と関わりのないような千葉の給水塔を撮ったのですか?」
「この給水塔があった頃の気持ちを思い出せるように、だよ」
そうしてきっと、君へ伝えるために。