長らく彼に聞いてみたいと思っていることがあった。
「東海道を、かつて共に走った『はと』を、恨んではいないのか?」
唐突な問いに彼は驚く様子もなく、メガネの薄いレンズの奥からただただ静かな視線を質問者に向けるだけだった。
「恨む? 何故だ?」
「特急としてのあんたを、東海道本線から追いやったのはあいつだろう」
「まあ、そうだな」
短く答えた相手は、やわらかなソファに埋れていた身体を少し動かし、足を組み変える。
かつて、豪華特急の代名詞として名を馳せた『つばめ』であった彼は、彼の姉妹列車として走っていた『はと』が東海道新幹線として東京大阪間の主要交通手段となったことにより、追われるようにして九州へと拠点を移した。しかし。
「つばめとしての私に引導を渡したのは貴様だぞ、山陽」
「え?……あっ」
「相変わらず迂闊な男だな」
怒るでもなくただ呆れたように、九州はわざとらしく溜息を吐いてみせた。東海道新幹線によって東京を追われた鳥は山陽新幹線の全線開業によって走る場を失い、消滅した。
「もしかして、東海道よりも俺のことを恨んでます……?」
どうも彼にその様子はなさそうだが、と思いつつも恐る恐る尋ねた山陽に、だから貴様は間抜けだと言うのだと徐々に眉間に寄せられた皺が深くなって行く。見覚えのあるそれに、さすがは姉妹特急だと場違いな感想を抱きながら山陽は「どーもすみませんねぇ」とへらりとした苦笑を浮かべた。
「間抜けな貴様にもよくわかるように断言してやろう。私に貴様や東海道を恨んでいるような無駄な暇などない」
「はあ、無駄ですか」
「無駄だ。過去を恨むような暇があるならその分、前へと進むことを考えるべきであろう」
違うか? と。視線で問われた山陽は降参ですと言うように両手を顔まで挙げ、ひらひらと掌を見せた。
「全く以て九州様の仰るとおりにございます」
「ならば無駄なことを聞くな」
私は貴様よりずっと忙しいんだ、と広げていた書類をさっさとまとめて相手に押し付けた九州は立ち上がり、部屋を出て行った。ぽつんとひとり残された山陽は、先ほどまでの打ち合わせに使っていたその書類をぱらぱらとめくる。それには、九州の管轄内における様々な事業を紹介するパンフレットも含まれていた。
鉄道事業以外に多種多様な活動を行っているのは知っていたが、こうしてまとめられているのを見ると彼の言葉の意味がよくわかるようだった。過去を振り返るどころか立ち止まる暇さえ無いほど、彼は様々なことに手を広げている。もちろん、この先を走り続けるために。
「貴方には、あんな風に答えるのね」
不意に聞こえた声に振り返れば、いつの間にか後ろに立っていた長崎が山陽の手元を覗き込んでいた。どうやらどこかで二人の話を聞いていたらしい。
「と、言うことは」
「私には『時代が彼らを選んだだけだ』って、言ったの」
それは強がりでも言い訳でも何でもなく、彼にしては珍しく素直な本音だったのだろう。だからこそ本人には言えなかったのでしょうと言って、長崎は笑って見せた。
「時代に、人々に望まれた方が残る。そうでないものは消えていく。自分だってそうやって他のものが消えていくのを見ながら走ってきたのだから、あの時は自分の番が来ただけだって。だからこそ望む声があれば何度でも再び走り出すのだ、って」
振り返ることなく、恨むこともなく、ただ前だけを見据えて。
そのまっすぐな姿勢には、確かに覚えがあった。かつての自分にひかりを与えたかみさまは――『新幹線』は、そうやって今も目の前を走り続けているのだから。
博多にいるはずの彼の姿が駅のどこにも見当たらない時は、いくつかある駅ビルのうちのひとつ、その屋上にあるつばめの杜ひろばを目指せばいい。と、山陽はこれまでの付き合いの中ですっかり学んでいた。
福岡の街並みや博多湾を一望することができる、様々な草木や花々であざやかに彩られたその屋上施設には、子供たちが乗ることのできる小さなつばめ電車が走り、博多駅を発着する列車の展望スペースがある。また、三つの鳥居を抜けた奥に鎮座する鉄道神社へと至る小さな参道には、九州各地から集められた土産物や食べものの店が仲見世のように軒を連ねている。
時にイベントやコンサートなども行われるここは、彼の思想の縮図、彼が目指すもののすべてが揃っているような場所だ。口癖のように忙しいと繰り返し、実際に多忙でありながら、それでも彼はよくここに来ている。
「九州!」
名を呼ばれ、まだ何かあるのかと訝しげな相手に山陽は、あんたにとってはどうでもいいことかもしれないけれどと前置いて口を開いた。
「俺は、恨んでる。あの時代を、俺と言う存在が消えなければならなくなった理由を、走れなくなった現実を、今でも恨んでる」
そうであるから彼に聞いてみたいと思ったのだ。恨むことはないと、そんな暇などないと彼は答えたけれど。
「恨んでいるからこそ今を大事にしたい。それを失った過去があるからこそ、走り続けることが出来る今を守りたいと、俺は思うんだ」
「貴様の事情など知らん」
そう言うと思っていた。わかっていて、それでも彼に知って置いて欲しいと思ったのだ。それは――
「だが、貴様が迂闊でも間抜けでもクズでもカスでも」
「ちょっと言いすぎじゃないかそれ……」
山陽さん傷ついちゃうなーと肩を落としてみせても、九州はフンと鼻を鳴らすだけだった。そしてはっきりと宣言してみせた。
「貴様は私と共に走るものだ。何があろうと前を見ていてもらわなければ、私が困る」
「でもね。九州はなんだかんだ言ってもやっぱり、昔のことが忘れられないんじゃないかって思うのよ」
そう言ってふふっと笑った長崎は「どうして?」と問う山陽の目の前に、右手の指を三本立てて見せた。
「貴方と彼と私。或いは、彼と貴方と、東海の彼、かしら。――博多の三羽烏を知ってる?」
かつて博多を発着していた鳥の名を関する三つの特急、つばめ・はと・かもめは三羽烏と呼ばれていた。それをどこかで覚えていて、無意識に三つで揃えてしまうのでしょうねと長崎が目を細める。
ただ、彼はそれを認めることができないのかもしれない。過去は過去のまま、たとえ振り返ることがなくても、そのままそこにあっていいはずなのに。
そんな男がもう一人いることを山陽は知っている。そして、どちらもとても頑固で強情なのだということも。
「似たもの同士の板挟みつらいデス」
「諦めなさいな。どうせ貴方、たいして嫌だとも思っていないのでしょう?」
「まあ、そのとおりなんだけどね」
ぼやいたところで、今この現状すらも好いていることに変わりはないのだと。苦笑した山陽はゆっくりと立ち上がって、手にしていた書類を長崎に手渡した。
「悪いけど長崎、これちょっと預かって。あとで取りに戻るからさ」
「それは構わないけれど、どこへ行くの?」
「九州のとこ。言わなきゃいけないことを思い出したんだ」
あんたたちとは少し形が違うかもしれないけれど、自分にも確かな想いがあるのだと。彼に知っておいて欲しいと思った。
彼はきっと、そしてもう一人の彼も、そんな自分を鼻で笑うのだろうけれど。
この先に続く長い道を、きっと。共に走る相手だから。
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