艦隊これくしょん・副官×提督BLと女提督×重巡青葉。
だいぶ初期の頃に書いたのもあって世界観がかなり独自設定です。というか好き勝手してます。
初出:2014.11.24
それは遠い日の。
あの海の向こうへと続く約束。
「長く待たせて悪かったな、青葉」
「提督ならきっと連れて行ってくれるって、青葉、信じてましたから」
二人で共に行こうと誓った。一から始めることになっても、必ずあの場所へ辿り着いてみせると約束した。
空の青を映したような水平線の向こうに、約束の場所がある。
1.
「赤煉瓦からの命令で来たのだから俺に拒否権はないけどな」
溜息と共に簡素な椅子から立ち上がった、よく日に焼けた人懐こそうな顔の上官は、そう言って窓の外へと視線を向けた。この部屋は港の様子をよく見下ろすことができる。その先に広がる、一見穏やかに見える海原も。
彼が所属するこの基地は戦いの最前線ではないが、限りなく南方の敵地に近い場所であり近海への襲撃も多い。さほど鍛えているようには見えない体躯に似合わずよく焼けた肌の色は、強い日差しを照り返す甲板に長時間立ち続けた結果だろう。提督室から指示を出すだけの司令官も多い中で、彼はとにかく自ら艦隊を率いて出撃することで赤煉瓦でも知られていた。
だからこそ、自分が派遣されてきたのだ。自分の役目を改めて思い出してぎゅっと拳を握りしめた副官から目を逸らしたまま、男は話を続ける。
「これだけは約束して欲しい。できないのならば上に掛け合い、君には本土へ帰ってもらうことになる」
「……何でしょうか」
「絶対に、戦闘には参加しないこと。海戦に出ないこと。俺がいない間、この母港を守ること」
それだけを守ってくれれば後は好きにして良いと言って、やっとその男は、自分の副官となるべくはるばるやって来た、自分よりも十くらいは若いであろう新任副官の顔を真正面から見据えた。
窓から射し込む南国の明るい日差しに照らされながら、眩しそうに目を細めて笑う。そのどこか寂しげな、憂いを帯びた上官の笑みに、ああ、この人は自分と同じ傷を抱いているのだと根拠もなく察した。
だからきっと、今度こそ、大丈夫だと。
「わかりました。約束すると、誓います」
*
「青葉! 提督は!」
血相を変えた副官に廊下で迫られて、ドッグから出たばかりで提督室へと向かっていた青葉は額に手を翳し、窓の外、海の彼方に視線を向けた。
「あー……出撃してますねぇ」
「あの出撃狂いのばか!」
上官に対する発言としては刑罰スレスレものだが、青葉は気にもせず遠くに見える艦影を凝視したまま、ちょんっと首を傾げて見せた。
「旗艦は夕張ちゃんかな? そういえば私がドッグ入りする前に工廠から新しい武装を開発したって連絡が来ていましたから、試し撃ちですかねー」
いいないいなーと言いながら振り返った青葉が見たのは、額に手のひらを当ててはああああとため息を吐いている副官の姿だった。
彼がここへ来た時、若いのにずいぶんと落ち着いた態度をとる青年だと他の艦娘たちと話題にしたものだったが、着任から数ヶ月が過ぎた最近は落ち着いていると言うよりも苦労して疲れているように見える。
そんな彼に苦労を掛けているのはもちろん、今は海上にいる提督その人だ。
「久しぶりに高速修復材ぶっかけられなかったので、もう夜も遅かったことですし、提督もお休みするのかなーって思ってたんですけど」
「君のドッグ入りを見届けて、そのまま時雨を連れて近海警備を繰り返していましたよ……夜どおし続けていたから扶桑と山城に本気で怒られて、帰って来て大人しく休むかと思えばこれですよ!」
「……提督ほんとに、母港にいないですよねー」
思わず二人のため息が重なった。
決して艦娘たちに負担を掛けているわけではない。繰り返される出撃により疲労した者があればすぐに交代させ、中破以上の損傷を負った者が出れば任務の途中であってもすぐに寄港して入渠させる。そのため、この艦隊で轟沈者は一人も出ていなかった。
ただ、とにかく出撃数が多い。朝も夜もなく出撃を繰り返す彼を知る人は、彼が一時間でも大人しく母港にいる方が珍しいとすら言う。同期の中でも圧倒的に出撃数の多い彼はその分、敵本隊の撃破数も多く出世スピードも早かった。
その階級だけで言えば、ここよりももっと待遇の良い本土に戻ることも可能なのだろう。但し彼自身がそれを望めば、である。
「さすがに私はちょっと怒ってます」
「お気持ちはお察しします。って言うか秘書艦なのに、怪我してドッグ入りするたびに毎回母港に置いてけぼりされる青葉もちょっと怒ってますよ?」
夜は提督も寝れば良いのだから朝まで待っていてくれたっていいじゃないですかー、と口をへの字にして見せた青葉に、そうです、そのとおりですねと副官は何度も頷いて見せた。
「夜くらい、布団で寝るべきですね。せっかく提督の希望で本土から一式を取り寄せたのですから」
「そうですそうです!」
力強く答えた青葉に、もう一度うんと頷いて青年は手招きをした。
「青葉、ちょっと手伝っていただきたいことがあります」
結局、提督が帰って来たのは夜も更けてからのことだった。
負傷した艦娘たちを次々とドッグに入れるよう指示を出して、不在中に帰投していた遠征組を労いながら次の遠征指示を出すために一度、提督室へと戻る。普段なら秘書艦か副官にでも聞けば済むことなのだが、あいにくどちらも見つからなかった。
いつもなら夜遅くても迎えに来てくれるのになぁと思いつつ、しかしそれならそれですぐに次の出撃に出られると思いながら提督室の扉を開けて電気をつけると、部屋の中央で副官が仁王立ちしていた。
「あ、」
部屋を間違えましたと冗談めかして笑いながら後ずさり、そのまま部屋を出ようとすれば、背後から「どーん」という掛け声とともに部屋の中に押し込められる。
「おい、今の青葉だろ!」
何のつもりだ! と上げた声よりも高らかに、ガシャンと外側から鍵が閉められる音が響いた。
「……何時の間に鍵なんか取り付けたんだ」
「提督が出撃を繰り返している間に、ですよ」
背後からの声にそろりと振り返れば、にこにこと副官が笑っている。その笑顔が怖い。
「えっと、もしかして怒ってる?」
「はい、とても」
どうやら簡単には部屋を出してもらえないぞと察して肩を落とすも、すぐに顔を上げて扉の向こう側に声を掛ける。
「青葉、そこにいるな? 帰って来ている遠征部隊を読み上げてくれ」
「はーい! 天龍・龍田率いるタンカー護衛組が、帰投後の補給も完了して休んでいるところですね」
「落ち着いたら再びタンカー護衛任務に就くように伝えてくれ。他の遠征部隊も、帰投して補給を終えたら同じ任務に出るように」
「すぐに、ですかー?」
「少し休んでからで良いよ。ただ、資源がだいぶ足りなくなっているから……復唱は不要だ。そのまま各部隊へ伝えるように」
「はーい。了解しましたー」
姿は見えないがいつもどおりにピッと敬礼したらしい青葉が、伝令のためにぱたぱたと走り去って行く。その音を聞きながら、ため息を吐いた提督はい草の畳に敷かれたふかふかの布団に座り込んだ。提督室に相応しいとは言えないそれらは、この方が落ち着くからと窓の障子と合わせて提督がわざわざ本土から取り寄せたものだ。稀にしかいないからと好き放題である。
「で、これは一体どういうつもりなんだ?」
「慢性的に資源が足りないのは確かですが、提督が今より出撃回数を減らせば足りなくなることもなくなりますよ」
「そういうことを聞いているわけじゃない」
「こちらにとっては同じことです」
言いながら畳に膝を突き、座っている提督と視線の高さを合わせる。白手袋をはめたままの手をそっと伸ばして、目の前にいる男の目元に触れた。
「こんな目の下にクマなんて作って」
「寝てないわけじゃないぞ。移動中の仮眠なら取っている」
「睡眠というのは適切な時間帯に適切な量を取らなければ意味がありません」
うぐっと返す言葉を失うが、ここまではいつもと同じ流れだ。どうせいつものように副官が折れるだろうと思ったのだが、そういえば先程外側から鍵を閉められたこの部屋は内側から開けることは可能なのだろうかと扉に視線を向けると、それに気が付いた副官がにこりと笑った。
「開きませんよ」
「……は?」
「緊急事態でも起こらない限り、朝まで鍵を開けないよう青葉に頼んであります」
「おいちょっと待て、え、」
トンと肩を押されて布団に転がった提督は、そのまま相手に跨られて身動きが取れなくなる。体格差はほとんどない相手なのだからいつもなら簡単に抵抗できるはずなのに、蓄積された寝不足と疲労によってうまく力を入れることができない。
「本当に、仕方のない人ですね」
じたばたしている己の上司を見下ろしながら、副官はそっと自分の白手袋をはずし始めた。
「そんなに出撃を繰り返されるほど興奮して居らっしゃるのなら、ちょっとガス抜きを手伝って差し上げますよ」
――あ、これまずいやつだ。
口元は笑っているのに目が完全に座っている部下を見上げて、提督はついに観念した。
「寝ろと言われたところで簡単には寝付けないのだが……」
「大丈夫です。泣いても喚いても提督が寝落ちるまで続けますから」
だからそういうセリフをそういう顔をして言わないで欲しい。とはいえ彼や青葉の制止を振り切って出撃を繰り返していたのは自分であり、抵抗できないほど弱っているのも自分自身の責任だ。
「俺が寝ているあいだ……絶対に、母港から動くなよ」
「わかっていますよ。誓いましたからね」
その約束の真意がどこにあるのかは知らない。きっと過去に何かあったのだろうということくらいは察しているが、知っていても知らなくても、どちらでもいいと思っている。たぶん、お互いに。
「約束は守りますから、お願いです。もう少し、ご自身のことを大切にしてください」
そう言って間近に迫った年若い部下の顔が、彼が時折見せる迷子の子供のそれにも似ていて。仕方がないのはどっちなんだか、と溜め息を吐いた提督は伸ばした手で相手の頭をぽんぽんと撫でてやった。
*
控えめに、けれどよく響く音で戸を叩いた相手に、どうぞ、と応えたのは部屋の正式な主ではなかった。
「失礼します、副官」
「ああ、大淀ですか。どうしました?」
本来この部屋の主であるはずの提督のために用意された椅子には副官が腰掛け、広いデスクに積み上げられた書類に忙しく万年筆を走らせている。彼が赴任して来てから日常と化している風景に特に驚くことなく、にこやかな笑顔のまま大淀は手にしていたものを胸の高さまで持ち上げた。
「赤煉瓦からお届け物です」
「本部から?」
それは見るからに高そうな紫の、艶のある風呂敷に包まれた箱のようなものだった。そんなものが届けられるような報告は受けていないはずだと思いながらとりあえず受け取れば、大きさの割に拍子抜けするほど軽い。
「こちらに内容物の一覧がありますので、中身の確認をお願い致します」
「提督ではなく私が代理して構わないものですか?」
「はい。開けても提督しか使えないものですし、提督は……」
当然のようにこの母港にはいない。昨日、北方方面へ秘書艦である青葉や他の主力を引き連れて出撃したばかりだ。数日は戻らない予定になっている。
「近海をぐるぐるしていらした時は頻繁にお戻りになりましたから、その時にタイミングよく捕まえられれば良かったのですが」
「さすがに距離のある北方海域では、そう頻繁には帰ってきませんから難しいですね」
帰ってきてもすぐに出撃してしまうので、タイミングを逃すとなかなか捕まえることができない。もちろん、そういう司令官だからこそ特例として副官が派遣されているわけだが。
「では、中身を確認しますね」
「お願い致します」
しゅるりと衣擦れの音と共に風呂敷を外して、まだ新しい桐の香りがする木箱の蓋をそっと開ける。中に入っていたのは数枚の書類と、小さな布張りの箱だった。
まずは小箱を取り出し、銀細工の金具を外して開けた副官は、その中身を見て思わず首を傾げた。
「これは……指輪、ですか」
「はい。こちらの箱の中身は、ケッコンカッコカリのための、指輪と確認書類の一式となっております」
「ケッコンカッコカリ」
噂には聞いていたが、と手の中の小さな箱の中身を凝視する。光を返してキラキラと輝いているそれは、何の細工もされていない、細身でシンプルな指輪だった。
司令官は特定の艦娘とケッコンすることができる――その噂は、本土で何度か耳にしたことがあった。当時はまだ計画段階であったのだが、いつの間にか実装されていたらしい。そして更に、上官はその実行を副官にも言わずに決めていたようだ。
どうして言わなかったのかというのはあまり気にしていない。どうせ忙しくて言い忘れたのだろう。帰港した時に近くにいた者に何でもかんでもとりあえず要件を告げてそのまますぐに出撃するような男だ。
それよりも副官には気になることがあった。
「シルバー、ではないですね。見たところ艤装と同じ素材で作られているようですが」
「ええ。結婚指輪に見立ててはいますが、それも装備品のひとつになります」
書類を、と促されて小箱を一度デスクに置き、箱から数枚の書類を取り上げる。一枚目は提督と艦娘用の誓約書。二枚目以降はみっちりと書き込まれた注意事項だった。
「これはまた……」
仮初の結婚に対してずいぶんと念入りに作られたものだと少し呆れながら読み進めていた副官の顔が、徐々に険しくなっていく。
「大淀、これは」
どういうことかと書面から顔を上げれば、目の前に立つ少女の顔からは笑顔が消え、眼鏡の奥からまっすぐな眼差しを副官に返していた。
「提督はそのシステムのことをよくご存知でした。覚悟を決めていらっしゃるのです。たぶんもう、ずっと、昔から」
「私がここに赴任してくるよりもはるかに前から、ですね」
ならばこの指輪の持ち主はもう決まっているのだろう。彼らの関係は決して色恋沙汰ではなかったが、それでも他者を寄せ付けない独特の雰囲気を持っていた。二人しか知りえないような、何か秘密を共有しているような。
それに嫉妬しているわけではない。自分はいろいろあって、なし崩し的な経緯で身体の関係こそあるが、あくまでも上官と副官という関係でしかない。信頼関係はそれなりに築けているとは思っているのだが、それ以上は何もない、はずだ。
「でも副官、その指輪……」
何かに気が付いたように小箱の中身を覗き込んでいた大淀が、整った眉を訝しげに顰める。
「イニシャルが提督のものではありませんね。それにちょっと、新品ではないような」
言われて指輪の内側を見れば確かに、彫り込まれたイニシャルが提督の名と一致しない。そして丁寧に研磨されてはいるが、どことなく古い材質のように見えた。
「本部に確認しますか?」
「まさかこんな重要なものを取り違えるとは思えないですから、一応、提督に確認してからにしましょう」
何もかもがイレギュラーな提督だから、こんなところでももしかしたら特殊案件なのかもしれない。困ったものですと肩を竦めて笑う副官に、それもそうですねと頷いて、ようやく大淀もいつものように微笑んで見せた。
2.
「司令官!」
まだ慣れない制服に着られているような感のある少年に呼ばれて、煙草の箱を手にしたまま振り返ったのは少年よりも一回り年上の女性だった。化粧気の少ない顔も、顎のあたりで切り揃えた髪先から覗く首回りもよく日に焼けている。指の先まで肌の白さが目立つ少年とは対照的だ。
「今日こそ俺も海戦に連れて行ってください!」
「ダメだ」
「なんでですか!」
「お前が私の副官だからだ」
少年がこの鎮守府に赴任してきてから、何度繰り返したか知れない問答を繰り返しながら女性提督は銜えた煙草に火をつける。ふーっと紫煙を吐き出して、今日こそはと勢い込んでいる小さな副官を見下ろした。
「お前の、副官としての仕事はなんだ?」
「出撃数が多く母港を不在しがちになる提督の代理を務めることです」
すべての提督に副官が付くわけではない。通常であれば提督が選んだ秘書艦と、任務を取り仕切る大淀だけで事足りるため副官の必要がないからだ。出撃数など、一定の基準を満たした提督に対して、本部の判断で副官が着任することになっている。
「副官は母港を守るのが仕事だろう。私と一緒に海に出たら意味がないだろうが」
「でも、」
「今日はやけに食い下がるな」
やれやれと携帯灰皿に煙草を押し潰して、引き下がろうとしない副官と真正面に向き合う。決してにらんでいるわけでもないのに力強い視線にたじろぎながら、それでも逃げることなくまっすぐに自分を見返す少年に提督はふっと笑ってみせた。
「赤煉瓦から何か言われたか?」
「そういう、わけでは、ないですけど」
「顔に出てるぞ」
わかりやすいやつめ、と軽くデコピンをする。イテッと思わず額を押さえた副官の頭を、更にわしゃわしゃと撫で回した。
「まあ、イイ子にしていたらそのうち連れて行ってやるよ」
「子ども扱いしないでください!」
「そういうことを言ってる間はいつまでも子どもだな」
残念だったなぁとカラカラ笑う提督に対して、副官は何も言えずに口を一文字に引き結ぶことしかできなかった。
「それは副官が悪いですよー」
間宮特製のどら焼きをもぐもぐと頬張りながら青葉がはっきりと言えば、少年副官の眉根には更に皺が増える。
「青葉はいつでも司令官の味方だな」
「もちろんです」
そんな顔したってだめですようと笑いながら眉間の皺をぐりぐりと突く手を、やめてくれと掴む。そのまましみじみと、薬指にはめられたまだ真新しい指輪を改めて眺めた。
「女性同士でもケッコンできるんだな」
「カッコカリですから」
本部の悪趣味な、悪ふざけのような名称。けれど青葉は嬉しそうに指輪を撫でる。
指輪は艦娘の制限解除装置。それもまだ試作段階を終えたばかりの、仮実装中のものだ。それでもその指輪によって、制限解除によるリスクを背負うことで得るものもある。
司令官も同じものをつけている。特別な力を何も持っていない提督がその指輪を嵌める代わりに得るのは、制限解除によって「普通の少女」へ戻る道を失うかもしれない艦娘の未来を背負う義務だ。
「提督にも艦娘にも拒否権があります。戦場から逃げ出して、陸へ戻ることを許されています」
徴兵によって集められた提督や艦娘が戦域で命を落とすことはない。蓄積された損傷によって戦闘不能になるのは艤装だけで、艤装を失った少女自身は救出されている。
けれど戦場に出るまで一般人であった者たちに戦闘を強制することはなかった。放棄することが許されている。
「でもこの指輪を得ることで、青葉も司令官もその権利を放棄しました」
「強さを得るために?」
「それもありますけど、それだけではないですよ」
ここから先は青葉と司令官だけのヒミツですと笑う。けれど副官がそれを把握した上で聞いているということを、青葉はわかっているのだろう。だから敢えて言うこともなく、互いに指摘することもなかった。
「副官は、青葉たち艦娘がどのようにして存在するかご存じですか?」
「……『最初の艤装』を元にして作られた艤装と適性が一致して、艤装を装着できた少女だけが艦娘として戦うことができる」
最初の艤装が発見されたのは深海棲艦と呼ばれる敵の襲撃を受けるようになったのと、ほぼ同時期のことだったという。過去に存在した艦船と一部の形状、特徴が一致、その艦船の名で呼ばれるようになった五つの艤装はしかし、誰も作動させることができなかった。
我こそはという屈強な男たちが次々と挑戦しては失敗し、ただのガラクタだったのかとしばらく放置されていた。それを動かし、これまでの戦力では全く歯が立たなかった深海棲艦を轟沈させることができたのは、信じられないことに普通の女子学生たちだった。
「吹雪、叢雲、漣、電、五月雨。この五つは『最初の艤装』として最も長く研究されている故に、これらをもとにしてつくられた艤装も数が多く、新任提督へ最初に配備される艦娘として選ばれている」
「はい。青葉たちは適性が一致しただけで、基本的には普通の人間です」
適合者は艤装を使用することにより、艤装そのものの記憶も共有している。戦闘を重ねるほどに融合の度合いは高まり、能力も上がるが、融合が強くなればなるほど普通の人間に戻れなくなるかもしれないというリスクも高まってしまう。そのため艤装には制限が設けられていた。
「指輪は、その制限を解除するための装置です」
より強い力を得る代わりに、いつか戻るかもしれなかった日常を捨てる。
「でもそんなの、今更な話ですよねぇ」
指輪をはめた手をきゅっと握りしめて笑った青葉の真意は、副官にはわからなかった。
「支援艦隊、ですか」
「南方はさすがに激戦地だからな」
通常の艦隊編成だけでは戦力が足らないと判断した司令官が、提督室へ呼び出した副官に支援艦隊の編成を命じたのは、南方方面への戦線拡大作戦が始まってしばらく経ってからのことだった。その間、彼女より上位階級の提督たちの戦闘とその報告によって敵の強さが徐々に明らかになり、今まで以上の戦力を持って向かわなければならないことが明白となっている。
「それじゃあ、俺も海戦に出してもらえるんですね」
「残念だが、支援艦隊は母港からも指示が出せる」
お前はいつもどおり留守番だと言い捨てられた副官は、その横を通り過ぎて部屋を出ようとしていた司令官の腕を掴んで引き止める。
「司令官、提督も母港から指示を出すことができるはずです」
わざわざ提督自ら艦隊を率いて海に出る必要はない。挑む海域と陣形の指示、そして進撃か撤退かの判断を行うのが提督の仕事であり、それだけなら母港にいても行うことができる。
「貴女が必ず艦隊を率いて海に出るのは、何か理由があるのですか」
「それが、お前がここに来た理由か」
まるで噛み合わないような提督の応えに、しかし副官は黙って掴んだ手に力を入れた。
「俺は貴女や、ここでの生活が嫌いではありません」
「それならそうと本部に伝えればいい。もう答えは出ているんだろう?」
「確証が欲しい」
それさえあれば、これ以上の追求は不要だ。何度も海戦に連れて行くようにと願い出たのはそのためだった。
「貴女が深海棲艦と通じていないと、あれらに惹かれてはいないという事実を、この目で確認したい」
――出撃数が多い提督とその艦隊は、必然的に敵と直接対峙する回数も多くなる。
そのためなのか、それとも元々その素質があったのか。深海棲艦に惹かれて、あるいは他に理由があるのかはわからないが、戦闘の最中に艦娘たちの前から姿を消す提督や艦娘が少なからず存在した。戦線が拡大し、敵が強力になるにつれてその数が少しずつ増えている。
出撃数の多い提督の元へ本部から副官が送り込まれるのは、仕事の補佐としてだけではなくその監視の意味が強かった。もちろんそのことは提督には知らされてはいないはずなのだが、彼女はその話をどこかで聞いて知ったのか、それとも副官の言動から察したのか。
「お前が海戦に出たがっていたのはそのためか」
「そうです」
「仇討ちのためではないのだな」
「それは、」
この人はそんなことまで知っているのかと内心驚きながらも、副官ははっきりと答えた。
「それは自分で提督になった時に、果たすべきことだと思っていますから」
「そうか……わかったよ」
仕方ないと苦笑しながら、司令官は若い副官の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「私にはどうしても譲れない理由があったから、ここにいる。だから決して深海棲艦に付け入られることもない。それをその目で確かめて、赤煉瓦のクソジジイ共に吐き捨ててやれ」
「はい!」
*
その町に住む二人の少女は、小さな頃から仲の良い幼馴染だった。ずっと一緒にいようと、人知れず密かに、約束を交わしていた。
やがて一人の少女は艦娘としての適性検査に合格し徴兵されることになり、もう一人の少女は適性外と判断された。けれど約束を守るために、町に残るはずだった少女は提督として戦地に出ることを自ら選んだ。
艦娘になった少女たちは、その艤装の装着によって身体成長の時間が止まってしまう。一人の少女は昔のままの姿であり、訓練を経て提督となったかつての少女は、相手を置いて一人で成長していってしまった。
それでもいいと、どちらも思っていた。少しでも長く一緒にいられればそれでいいと。たとえどんな姿になったとしても、互いの側にあればそれで良かった。
だから、指輪を。
「青葉、ホントは敵じゃなくて、――な、なんてね」
青空の下で照れくさそうに笑う青葉の手を取って、幼馴染の司令官も笑う。
それが世界のすべてだった。
*
布張りの小箱を開けた青葉は、驚いたよう目を見開いて目の前に立つ男を見返した。
「提督、これ、どうして」
「あの時、全てを黙秘したまま提督になることを承諾する代わりに、赤煉瓦に条件をふたつ突きつけたんだよ。ひとつは青葉を俺の艦隊に入れること。もうひとつは、その指輪を青葉に返すこと」
『彼女』の指輪は俺が持っているから、と。ポケットから取り出したお揃いの指輪を手のひらに乗せてみせる。
「ずっと、提督が持ってらしたのですね」
あの人と一緒に沈んでしまったものだと思っていましたと、青葉が笑う。笑いながら俯いてしまう相手の手から小箱を受け取って、その箱の中で十年以上も持ち主の元へ戻るのを待っていた、青葉のために作られた指輪を取り出す。
あの頃はこれの意味がよく分かっていなかったが、提督として戦い続けてきた今ならわかる気がした。
「長く待たせて悪かったな、青葉」
青葉の左手を取って、その薬指に指輪を通す。あの時と同じ指輪を、ここにはいない『彼女』の代わりに。
「提督ならきっと連れて行ってくれるって、青葉、信じてましたから」
二人で共に行こうと誓った。一から始めることになっても、必ずあの場所へ辿り着いてみせると約束した。
そのために出撃を繰り返し、仲間を増やし、寝る間も惜しんで戦力を強化して。ただまっすぐに前だけを見つめて突き進んできた。
あの水平線の先にある、『彼女』が眠る海へ。
3.
出撃狂いの提督が、ある日を境にぴたりと戦場に出るのをやめた。近海の警備に専念し、近隣の提督との演習や、資材収集のための遠征指示に徹している。
「どういう風の吹き回しですか」
「資源が慢性的に足りてないと報告してきたのはお前だろ」
訝しげな副官の問いに、ふわあと大きなあくびをしながら男は答えた。出撃しないからといってきちんと寝ているわけではないらしい。提督室の、い草の畳が敷き詰められた床には、海図や編成案が走り書きされたメモなどが所狭しとばら撒かれている。それをちらりと見やって副官は尋ねた。
「南方海域、ですか」
「うちの主力ならそろそろ行けるだろうと思ってな」
「戦力だけなら十分すぎるくらいですよ」
それが繰り返された出撃の成果だ。出撃に重点を置いてきたために装備の方は十分と言えないが、最低限必要なものは揃っている。
「資材が揃い次第、南方海域へ出撃する。一気にカタをつけるつもりだ」
「提督にしてはやけに性急ですね」
「必要なものはだいたい集まったからな」
答えになっていない。けれど、それ以上を説明するつもりもなさそうだった。
「ま、いつもどおり留守番を頼むよ」
そう言って笑って見せた提督に、少し引っかかりを感じつつも副官は頷いて見せた。
ひとたび進撃を始めれば、怒涛の勢いで敵艦隊を駆逐する。
現地から上げられてくる報告に目を通しながら、さすがのものだと副官は内心感嘆する。海域に出るまでの情報収集も、そこから考え出した編成も、現地での進退の判断も的確だ。
彼は確かに、戦うためだけにここにいる。
まるでそれ以外のものは何も目に入っていないかのように。
「そのことが時々、少し不安になるわ」
すっかり提督室の主となって執務机に張り付いている副官を訪っていたのは、疲労の蓄積回復のため一足先に母港へ帰投していた扶桑だった。ひととおり現地の報告を終えてから、ふうっと小さなため息をこぼす。彼女はこの艦隊で初期から戦っている古参の一人であり、副官よりもずっと長く提督を見ている。
「あのかた、ここへきてから一度も休暇を取ったことがないの」
「一度も、ですか」
そんな気はしていたが、本当にそのとおりだったとは。
副官や艦娘たちに休みを取らせ、本人の希望があれば本土へ戻ることも許可しながら、自身は戦闘以外でこの母港を離れることがなかった。時折、青葉と二人で海を見に行くのが唯一の気晴らしのように見える。
「提督の、覚悟」
不意にあの指輪が届いた時のことを思い出す。あれは間違いの品ではなく、そのまま副官の予想どおり青葉へと渡された。今回の作戦でも旗艦として戦闘に出ている青葉の左手の薬指には、何の飾りもないシンプルな指輪が輝いている。
その指輪によって、青葉は彼女の艤装に掛けられていた制限を解除し、名実ともにこの艦隊の主力となっている。もともと燃費の良い彼女の性能が格段に向上することで、とにかく出撃数の多さで資源消費が激しい提督にとっては最高の相棒となっていた。
その代償として二人は、おそらく二度と、本土へは戻れない。
『指輪を得て制限解除した艦娘とその提督は、深海棲艦との戦いが終わるまでその任務が解かれることはない』
「でもね、副官さん。ここだけの話だけれど、そんな青葉が羨ましいと思うことが私にもあるのよ」
「制限解除していない貴女は、任期が終われば本土へ、故郷へ帰ることができる。それでも、ですか?」
「帰っても待つ人がいないのならば、どこにいても同じことではないかしら」
それはどういう意味なのかと、副官が口を開くよりも先に提督室の扉が激しく叩かれる音が響いた。
「副官! 大変です副官!」
彼女らしくもなく、返事を待たずに室内へ飛び込んできた大淀に、どうしたのかと問う前に副官は勢いよく立ち上がる。大淀の後ろ、夕立に支えられて入室してきたのは、提督と共に南方海域に出ているはずの時雨だった。衣服のあちこちがぼろぼろに裂け、背負った艤装は見るも無惨な姿と化している。
「時雨!」
悲鳴にも似た声を上げて駆け寄った扶桑に、倒れこむように時雨は抱きついた。扶桑に姉妹艦を託した夕立がぴょこんと髪を揺らして大淀に頷いて見せ、それを受けて大淀が口を開く。
「南方海域の最深部で、未確認の敵艦隊と遭遇。提督が重傷だそうです」
「なにを、言って」
提督も艦娘も、戦闘で負傷することはない。どちらも本部から募集の際にそう説明されているはずだ。損傷を受けるのはあくまでも艤装と、移動に使用する艦そのものだけだ、と。
「足元の機関部に損傷を負わなかった時雨が一番早く走れるからと、提督の指示で救援要請のため先に母港へ帰されたそうです。近海を巡廻中だった天龍と龍田が時雨を見つけて、時雨のあとから母港に向かっていたという他の艦娘たちの救助に向かいました。また、その艦娘たちを追って敵艦が母港へ迫っているとの報告も来ています。ですが……」
「提督と、青葉さんが、」
扶桑にしがみついたまま、よろりと立ち上がった時雨が悲痛な声を上げる。
「お二人がまだ、敵に囲まれたままです」
「どうして!」
「時雨のあとを追ってきた飛龍の艦載機の報告によれば、重傷を負った自分だけでなく青葉も損傷が激しく動けないことを、提督が黙っておられたそうです……自分は青葉と共に後を追いかけるから先に行けと、そう言って……」
嘘をついたのだ。おそらく艦隊の全滅を避けるために。そのことに、先に提督の指示で母港を目指していた時雨以外の僚艦たちが気づいたのは、少なくない損傷を負いながらもなんとか敵の包囲を突破して振り返った時だった。
「必ずあとから追いかけるから、大丈夫だって、僕にそう言ったのに」
崩れる時雨を扶桑がぎゅうと抱きしめる。それを見て副官は、厳しい視線を大淀に向ける。
「なぜ、どうしてすぐに報告しなかったのですか」
「あなたが本部から送り込まれた監視役だから、報告を躊躇しました。でももう、そんなことを言ってはいられませんから」
ぎりっと拳を握りしめた副官に、申し訳ありませんでしたと大淀は勢いよく頭を下げた。
「どうか、どうか提督を助けてください……!」
非常時における出撃指示の代行権限は副官にある。この場で提督と青葉を救うことができるのは副官だけだった。
そもそも艦娘たちは自分の意思で出撃することを許されていない。彼女たちが持つのは戦闘能力だけであり、出撃の権限は、そしてそれにまつわる責任は、すべて提督が背負うことになっている。
「私は、」
頭にのぼっていた血が一気に下がっていくのを感じた。副官として提督の代理を務めているとはいえそれらは事務手続き上のものに限られ、出撃指示を行ったことなど一度もない。提督がそれをさせなかった。
これはすべて自分の背に負うものだからと。それが彼の、提督としての覚悟で。
でも今は、自分しかいないから。
「私には提督との、約束がありますから」
そして託されたものがある。それはきっと、この時のためだったのだろうと。
「副官として、支援艦隊を出撃させ、同時に、こちらへ迫っている敵艦の迎撃を行います。みなさんは私の指示どおりに動いてください」
「はい!」
*
「なんだかまるで、あの日に戻ったみたいですねぇ」
一面に広がる青い海と空。周囲を禍々しい敵に囲まれているというのに、頭上に広がる青空のように晴れ晴れと笑って見せた青葉は連装砲を構え直した。
機関部に受けた砲撃によってその場から動けなくなった旗艦の、その舳先に仁王立ちする青葉の背後で、砲台に背を預けて座り込んでいた提督も護身用の拳銃を握りしめた。そんなもので敵に致命傷を与えることはできないが、追い払うことくらいはできる。何もないよりはマシだ。
僚艦に移った乗船員と他の艦娘たちが敵の包囲を振り切るのを見届けたあと、この場に残った二人で孤軍奮闘を繰り広げていたが、それもそろそろ限界のようだった。足を撃たれて動けない提督と、艤装の損傷で海上に立つことができなくなった青葉ではもうどうすることもできない。
「やっと、やっと奴を見つけたんだ。一矢報いるくらいはしたかったが」
「結構なダメージは与えられたと思いますよ?」
ほんの数メートル先の海上にゆらゆらと揺らめいているのは、この海域では目撃証言のない敵艦だった。十数年前のあの時も突然奴が現れて、そして『彼女』は命を落としたのだ。
「相討ちなら狙えるかもですねぇ」
「行く時は、一緒だ」
血まみれの足を引きずりながら、よろよろと立ち上がった提督が青葉の隣に立つ。青葉が差し出した腕を掴みながら、まっすぐに敵を見据えたまま。
「母港は、大丈夫かな」
ぽつりとこぼれた青葉の言葉に、うん、と小さく頷いて提督が笑う。
「大丈夫だろ。そのためにあいつに託してきた」
「すごく怒られますねぇ、きっと」
「そうだな。勝手ばかりしたから」
けれどきっと、これが最後だ。
まっすぐに連装砲を構えた青葉とその隣に立つ提督を見て、その意図を感じ取ったのか敵艦が動き出した。焦らすようにゆっくりと近づいてくるその顔は、笑っているようにも見える。
異常とも呼ばれる出撃数の中で何度対峙したところで、自分たちが深海棲艦に魅入られるはずがなかった。自分から両親を、青葉から『彼女』を奪った憎い仇であり、それ以上でもそれ以下でもない。
敵には敵なりの目的があるのだろう。けれど『彼女』を殺す時も奴は笑っていた。笑いながら殺していた。
その光景を忘れることができなくて、ここまでただひたすらに戦ってきたのだけれど。
これで、おしまい。逃げることのできない二人に、敵の砲門が向けられた、その時だった。
「……距離、速度、よし!」
聞きなれた声が辺りに響き渡る。
「全門斉射!」
「撃ちます! Fire!」
鋭い掛け声と激しい砲撃の音とともに、無数の砲弾が目前の敵へ撃ち込まれた。白煙の中、猛スピードで姿を現した金剛と霧島の姿を、船上からぽかんと見ていることしかできない提督と青葉の元に、よいしょっと海から上がってきた少女がにこりと笑いかけた。
「えっと……榛名と、比叡?」
「はい、榛名です。帰ってきたみなさんも、貴方の母港も大丈夫ですよ」
「そちらの副官さんに頼まれて力を貸しに来ました! 私たちも気合い! 入れて! 行きます!」
そう言ってひょいと海上へ戻り、砲撃を続けている金剛と霧島に合流した榛名と比叡は、演習でよく対峙する近隣提督の艦隊に所属する艦娘だ。どういうことだと思いながらあることに気がついた提督が、傷に響くのも構わずに声を上げる。
「金剛、霧島! お前たちがここにいたら母港は誰が守っているんだ!」
あの時と同じであれば、母港へも敵艦隊が迫っているはずだ。横から迫っていた敵の僚艦に主砲を撃ち込んだ金剛が、提督の問いに振り向いて笑う。
「扶桑と山城デース!」
確かにここにいる彼女たちの他に、この艦隊に所属している戦艦はその二人しかいないが、二人とも疲労と艤装の損傷でドッグ入りしていたはずだ。
「副官が修復剤を調達してくれました」
ちょっと強引でしたねとため息を吐きながらメガネのずれを直した霧島の隣で、比叡が片手をぶんぶんと振りながら大声を上げる。
「借りは! あとで! たーっぷりと返していただきますからね!」
なるほど彼女の所属する艦隊から借りてきたようだ。あとの処理が大変だとため息を吐いた提督はすぐに、『このあと』があるのだということに気がついて目を丸くした。
高速戦艦姉妹の息の合った猛攻を受けた敵艦が、形勢不利と見たのか次々と撤退して行く。その姿を見て、提督はゆっくりと息を吐いた。
「青葉」
「はい」
「どうやら俺たちはまだ、あの人のところへは行けないらしい」
「そうみたい、ですねぇ」
急に力が抜けたように青葉は、連装砲を構えたままだった手をようやく下ろす。そのままぺたんとその場に座り込んで、困ったように笑いながら提督を見上げた。
「副官のおかげですね」
「おかげ、か」
遠く背後から「提督見つけたっぽーい」と、これもまた聞き慣れた声が聞こえてくる。救援に来た夕立たち支援艦隊の到着だった。
*
「俺はあの日、青葉を生かすために生かされた」
彼女は自分の副官を命がけで守って青葉を託し、青葉には副官を守るように命じた。司令官の命令は艦娘にとって絶対。だから青葉は今も、提督となったかつての少年副官の側にいる。
病室の真白い天井を見上げたままそう告げれば、寝台の隣に立って窓の外を眺めていた副官は、足元にあった簡易椅子に腰を下ろした。
提督の怪我は幸い大事には至らなかったが、失血量が多かったことから、念のため軍医から安静にするよう言われている。提督にしては珍しく、おとなしく従っているのは、退院したら面倒な後始末に追われることをわかっているからだ。
「お前はどこまで知っていたんだ?」
「貴方がかつて副官として所属していた艦隊の母港が、提督と主力艦隊の出撃中に敵艦隊の奇襲を受けて大きな被害を受けたこと。その女性提督が、海域で行方不明になったこと」
「行方不明じゃない。戦死だ」
提督と艦娘は戦死しないと言われている。今までに戦死者は一人も出したことがないと、常に本部は主張していた。
ほとんどの提督は戦場に出ることがなく、戦闘に出る艦娘も損傷を負い、最悪轟沈するのは艤装だけで、本人は無事であると喧伝されている。
「でも、そんなものは全部、本部の人間が勝手に作った建前に過ぎない」
「……私の父も、提督でした。深海棲艦に魅入られて帰らなくなったと説明されましたが、とても信じられませんでした」
「それでお前が、俺の副官に選ばれたのか」
なるほどなぁと一人納得した提督は手を伸ばして、いつのまにか俯いていた副官の、寝台に置かれた手をぽんぽんと叩いた。
「赤煉瓦の連中は遺族にそう説明して、本当のことを隠してきたんだ」
けれど自分は見てしまった。青葉を頼むと言い残して、砲撃から自分を庇って海に落ちた司令官が、あの敵艦に殺されるのを。青葉たちと共に戻った、敵襲を受けた母港の惨状を。
そして真実の黙秘を強要される代わりに、その監視の下で訓練を受けて提督となり、本部を脅すようにして強引に青葉を呼び寄せ、指輪の約束をも取り付けた。そういう提督だからこそ、現地でも監視を続けるために副官が寄越されたのだ。
「私がはじめてここへ来た日、海に出ず、母港を守れと私に言ったのは」
「俺がそれを、ずっと後悔していたからだ」
あの日、彼女について戦場に出ていなければ。言われていたとおりに母港を守っていれば。何度後悔したところで意味はなく、だから彼女に残された青葉と二人、どんなに時間がかかってもいいから、いつかあの海へ再び行こうと誓った。
「お前はここにいる今の俺だけでなく、あの日の俺も救ってくれたんだ」
どうしたらいいのかわからずに、どうしようもなくて、ただ青葉と共にあの海を目指すことしかできなかった自分を。
ぎゅっと、副官の手を握りしめる。まるで子供のように泣き出しそうな顔をしていた副官は、耐えられなくなったように腕を伸ばして提督を抱きしめた。
「痛いって」
「すみません……」
でももう少し、このままで、と。
消え入りそうな声で言う相手の背をゆっくりと撫でてやる。
「約束を守ってくれて、ありがとな」
――その夜は、提督になって初めてゆっくりと、夢も見ないほどの眠りにつくことができた。
あの日から繰り返し見てきた悪夢は、きっと消えることはないのだろう。それでもその夢に怯える必要はもうないのだと、そう思えた。
「この怪我が治ったらすぐに、提督業に復帰する。――俺は、奴を倒したい」
数日に及ぶドッグでの大修繕からようやく外へ出られた青葉は、浅瀬に素足を浸しながら、浜辺に松葉杖を突いて立つ提督を振り返った。言葉の意図を探るような、感情の見えない透明な視線で相手を射抜く。
「仇討しても、司令官は帰ってきませんよ?」
「それでも奴を倒さないときっと、俺は前に進めないから」
目指すものが一緒でも、今までとは違う。あの時はそれがあることも知らなかった、まだ見ぬ道へ進むために戦いを続ける。
そしてそれは、できることならば。
「あいつらと、お前と、一緒に」
今度は一から始めるのではない。ここへたどり着くまでに二人で、みんなで、積み重ねてきたものがあるのだから。そして何よりも彼の存在が大きかった。
「あいつがいてくれて、あいつが俺の副官で良かったよ」
「そうですねぇ」
きっとあの人もそう思っていたのだろうと、提督に背を向けたまま、その言葉を聞きながら青葉は指輪を撫でる。どうせ元に戻れないことに変わりはないのだから、彼の言うとおり、今までと変わらず前に進むしかない。
そしてそれは、決して一人の道ではないから。
「提督」
顔を上げれば空の青を映したような水平線が広がり、その向こうに、約束の場所があった。この海のどこかで彼女が眠っているのならば、自分はこの海で戦い続けるだけだ。彼女が残した彼と、彼が得た仲間たちと共に。
いつか、どこか。静かな海で眠りにつく日まで。
もう少しだけ待っててね、と。口元に寄せた指輪に小さく声をかけて、提督を振り返った青葉は青空の下で照れくさそうに笑って見せた。
あの日、自分を迎えた彼に泣きそうになりながら告げた言葉を、今度は笑顔で伝えるために。
「また、青葉をよろしくね」