涼宮ハルヒの憂鬱・古泉×キョン幕末パラレル。
松塾出身の古泉と江戸で学友になったキョンの昌平坂学問所。
初出:2007.10.07 再版:2015.10.04
雪上の花
踏みにじられても尚赤く
それが彼らの覚悟の色
一.
自分で言うのも何だが、俺は自分をそう賢い人間だとは思っていない。天才とも秀才とも縁遠いし、ましてや奇才であるはずもなく、大層な努力家でもない。
ただ、そこそこの家柄の三男坊だから結構な時間を持て余していたことと、昔から本を読むのが好きで武士の教養の基本である四書五経は早い段階で覚えていた。学問といえば四書五経を声に出して読むことから始めるが、声変わりが終わったころ何故かその声が師に絶賛され、その噂を聞いた国主様に呼ばれて御前で進講するという、どう考えても奇跡としか思えないような体験までしてしまった。
お陰で国主様の特別の計らいで、幕府の唯一にして最高の学問府である昌平坂の学問所に通うことができるようになったので役得といえば役得だ。というかもう、本気で夢かと思って妹に頬をつねらせたこともあった。武家の三男坊なんて他家に養子に行く外に身を立てる道はないが、昌平坂に通ったという経歴さえあれば家に関係なく出世する可能性が出てくるからな。
とは言え俺自身は出世に対してそれほど貪欲なわけでもなく、とりあえずのらりくらり生活しても家に迷惑がかからないことは精神上において楽になるなと思ったくらいだった。ましてや、全国から天才秀才奇才が集まる学問所で人脈を無限に広げて将来に役立たせようなどとは少しも思っていなかった。俺がここにいるのは奇跡以外の何ものでもなく、自分が秀才でも天才でも何でもないことは俺自身が一番良く知っていた。
ただ、俺自身の考えなど周囲の人間にとってはどうでもいいことのようで、そういえば俺の故郷の国主様は先日寺社奉行を任ぜられており、寺社奉行といえば三大奉行職のひとつで老中職への前段階、老中職といえば幕府の行政を司る役職のなかでも最高職に近く、権力がある程度分散されているとは言えいろいろすっとばして単純に言ってしまえば将軍様の次に偉いことになる。そんな寺社奉行を任ぜられた国主の特別の計らいで学問所の門を潜った俺のことを、輝かしい将来のために人脈を広げようとしている若者たちが放っておいてくれるはずがなかった。当たり前といえば当たり前だな。
というわけで記念すべき最初の友人は、先の老中の相談役を勤めた江戸で知らぬ者はいないだろうというほど高名な学者の外孫だった。英明の誉れ高い、しかしお家の事情で不遇の身となっているある藩の若君様に弟のように可愛がられている側近でもあるというその男は、どう考えてもこんな場所に来なければ言葉も交わさなかったであろう自分とは住む次元が違うような青年だ。
「いや、それは言い過ぎだ」
言い過ぎなものか。俺はお前みたいに若君様にこづかいを貰ったことなんぞ一度もない。というか、そんな人間はめったにいない。いたら困る。
「あー、それはほら、俺の父親が若の学問指南役だったから」
「その時点でもう特殊なんだよ」
学堂から寮へと向かいながら、俺は溜め息を吐いた。こいつの特殊環境は生まれた時からのようだから、自覚ないのも仕方ないのだろう。それにしたって、それにしてもだ。
「ん、あ。ちょっと待て」
不意に何かに気付いた相手は、片手を大きく上げて振った。
「おーい、高杉!こっちだ!」
近づいてみれば、なるほど確かに友人の一人である高杉だった。小柄な彼と連れ立っている、背の高い青年は見ない顔。視線が合うとにこりとさわやかに笑って見せた。絵に描いたような好青年だ。
「何だ大野さん。もう終わったのか」
「ああ、今日はそんなに長引かなかった。そっちは?」
特殊な経歴を生かしてやたら顔の広い友人にとっても、そのさわやか好青年は面識のない人物だったらしい。うんと頷いて、高杉は自分よりもずいぶんと背の高い連れを見上げる。
「こいつは古泉。同郷というか、村塾生」
「どうも」
見た目と同じく爽やかな声だ。本当に絵に描いたような見事な好青年ぶりで、しかもその辺の役者に見劣りしないような容貌をしていて、見るからに凡人の自分と比べて……比べるのもイヤになったのでとりあえずそれについては触れないでおこう。
さわやか青年を見た友人の感想は自分とはまた違ったもののようで、呆れたように声を上げた。
「なんだまた増えたのか。お前の仲間はいったい何人いるんだよ」
「学問所に入れる程度の塾生は、そう多くないさ。こいつで打ち止めだな」
いまいち二人が何の話をしているのかわからないが、とりあえずこの爽やか青年の名前が古泉だということはわかった。
「今日の会合はこいつの歓迎会も兼ねているんだ。大野さんも、もちろん来るだろ?」
「ああ」
「君はどうする?」
いつものように、一応かたちだけ尋ねられて、
「いや、遠慮しておくよ」
いつものように丁重にお断りした。彼らの会合が具体的にどのようなものなのかは知らないが、関わらない方が無難な類のものだということは知っている。
先程の会話に出てきた「村塾」とは、恐らく高杉が故郷で通っていたという私塾のことだろう。そしてその塾で高杉らを教えていたのは、とんでもない人物だ。その行動や思想から危険人物と呼んで間違いないような。
彼らは共に学問する友人としては結構なのだが、仲間になるのはご遠慮したい。そういった人間が多いのもこの学問所の特色なのだろうか。江戸の有名な剣術道場に通う知人も似たようなことを言っていたから、もしかしたら江戸内で大勢の人が集まる場所というのは得てしてそういうものなのかもしれない。
とにかく、さわらぬ神になんとやらだ。
「それじゃあ、このまま行くから荷物を頼んでもいいか?」
そう言って差し出された冊子を受け取って、俺は笑って見せた。
「あんまりハメ外すなよ。明日の輪読、確か大野が当番だっただろう」
「そういえばそうだったな……ま、何とかなるだろ」
俺と友人がそんな会話を交わしている間、古泉とかいう背の高い青年は始終さわやかな笑顔を浮かべているだけだった。その笑顔がどうにも胡散臭いというか、何故か引っかかるものがあるように感じた。特に理由など無い。どうもそんな気がする。
ただ、こいつはきっと見た目どおりの内面を持ってはいないだろうということだけは、はっきりと感じていた。
二.
最近、友人たちの多くが浮かない顔をしていることに気付いてはいた。理由も何となくわかっていた。自分とは関わりのない話であっても、耳に入ってくる内容でそれなりに判断はできるからな。
古泉とか言うさわやか青年の笑顔に突っかかるものを感じたのは、だからだろう。彼の仲間は誰も彼もが悩みを抱えた顔をしている。そんな中で一人にこやかに笑いながら過ごしている人間がいれば、そりゃ違和感も覚えるってもんだ。
とりあえずそういうことにしておく。
友人の大野は結局、べろんべろんに酔っ払って帰って来た後、頭が痛いとか気分が悪いとか言いながら普通に輪読に出て普通に当番をこなしやがった。輪読っつーのはまあ、寺子屋だろうと藩校だろうとそれなりに学力がついた段階で行う一般的な学習方法だ。だから本来、それほど難しくないはずなのだが、如何せん議論大好き人間が集まっているのがこの学問所。しかも己の解釈は絶対に曲げない連中ばかりで。だから時間内に終わることは稀である。
大野はこの手の議論が得意で、理由は簡単、まだ文字も読めないようなガキの頃から超一流の学者先生方と論戦をして遊んでいたからだ。それらの論戦によって与えられてきた知識量が半端じゃない。輪読の当番になると自分と相手の論を戦わせるだけでなく相手の論の評価もしなければならないのだが、大野はそれも難なくやってのけてしまう。
そんなこいつの、輪読の水準の高さを知っているからなのか、教授陣は昨日来たばかりの爽やか青年を俺たちの集団に紛れ込ませていた。意外だったのは、この新人が大野と対等に渡り合っていたことだ。これは教授陣も意外だったようで、いつも以上に長引いている俺たちの輪読は、いつの間にかよい見世物になっていた。水準を一人で著しく下げている俺としては、もう誰か代わってくれ早く帰りたいんだ俺は関係ない、という気分なんだが。
結局終わったのは本来の終了時刻を大幅に過ぎた頃で、ぐったりとした俺の目の前には、ひどく満足している様子の大野と相変わらずにこやかな古泉の笑顔があった。
「いや、こんなに熱くなったのは久しぶりだ」
何でそんなに、一人で満足そうな顔をしているんだ大野。
「僕も楽しかったです。大野さんの評判は高杉たちから聞いていましたから。実は楽しみにしていたんですよ」
確かに大野は評判になっているようだがそういうことを面と向かって言うな。調子に乗るから。
「お前、時々俺に対して容赦ないよな」
昨日と同じく寮に向かって歩きながら、大野はわざとらしく溜め息を吐いた。
「何だかんだ言って、いつも宴会に参加しないしなぁ。何だお前、ほんとは俺のことキライなのか?」
得体の知れない集まりに参加するつもりはない、それだけのことだ。お前に対する好き嫌いなんてどうだっていい。というかキライならこうしてつるまない。
「それにしても付き合い悪いじゃないか。一緒に飲んで騒ごうぜ」
ブツクサとそんなことを言いながら、けれど大野が参加を強要することは決してない。距離を置こうとしているこちらの気持ちを、きちんと理解しているらしい。特殊環境に育ったせいかたまにぶっ飛んだことをする男だが、その辺りの配慮はさすがに広い交友関係の存在を感じさせた。
そんないつもと変わらない会話を交わしている俺たちを、並んで歩く古泉は不思議な表情で眺めていた。口元には微笑。これはもう、なんだ、きっとこいつの地顔なんだろうな。
「そういやお前、古泉と同い年だったな」
突然そんなことを言い出した大野に、俺は驚かない。この男のこういう部分にはだいぶ慣れている。しかし、そうなのか。同い年なのか。てっきりいくつか年上だと思っていたぞ。
「お前は落ち着きがないからな」
少なくともその言葉をお前には言われたくない。
「失礼な。まあいいや。古泉、昨日の件はこいつに付き合ってもらえ。俺と一緒より気が楽だろ」
「昨日の件ってのは何だ?」
首を傾げた俺の問いに、答えたのは古泉だった。
「こちらに来たばかりなので色々と足らないものがあるんですよ。買い物に行こうにも江戸の町にはまだ慣れていなくて。それで観光がてら案内していただこうと思いまして」
「最初は高杉とかその辺の誰かが行く予定だったんだけど、急な集まりがあるらしくて俺が引き受けたんだ。しかし、こういう時に限って呼び出しがかかってな。俺の代わりに行ってやってくれ」
一度引き受けたことは最後まできっちりと請け負えという俺の抗議を聞き流して、謎の笑みを残した大野はそのまま立ち去ってしまった。勝手に残された俺はすでに本日何度目かわからない溜め息を吐き、隣に並んだ青年は軽く肩をすくめた。
「ひとつ聞きたいことがある」
ある程度の買い物を終えて茶屋に寄った俺たちは、軒先の縁台に並んで座って団子を頬張っていた。
「お前は先生とやらの安否が心配じゃないのか?」
友人たちが浮かない顔をして、そして毎夜のように集まっている理由。それは、彼らの先生が牢獄にぶち込まれてどんな刑罰が下されるのかはっきりしない状況にあるからだ。目の前の青年や高杉らの先生もそうだが、大野が随分と世話になったという先生も捕まっている。
詳しいことは、実はよくは知らない。自分には関係のないことだと、自分からは遠い世界の話だと、そう思っていたからだろう。だから距離を置いてしまうのはきっと、そう、俺自身の覚悟の問題だ。
世の中の動きに、大きな流れの中に、この身を投じる覚悟。
それをまだ、俺は持っていないから。
「もちろん、心配しています。……とても」
付け足された言葉は聞き逃してしまいそうになるほど小さくて、問うような視線を向けると声の主は苦笑を浮かべていた。
「どんなことがあっても動じない笑顔を浮かべている。それが僕の立ち位置だと思っているのです。先生のお人柄があってか、塾生には走り出したら止まらない人間ばかりが集まっているので」
「それは高杉や久坂のことか? そんな過激な連中には見えないが」
友人として付き合っている高杉や、その紹介で幾度か言葉を交わしたことのある連中を脳裏に浮かべながら首をかしげると、古泉はどこか寂しそうに見える微笑を浮かべる。
「今は、ね。かなり大人しくしていますよ。やはり先生のことがありますから」
下手に動いて、役人や先生本人を刺激してはいけないから。
「いつでも常と変わらぬ態度を保って、何かの時には仲間たちの抑えの役割をする。それが僕の立ち位置です」
抑えたところで止まる連中なのか?
「そうですね、あまり効果はないかもしれません。しかし、計画のない暴発を行うのは愚者のすること。成せることも成せなくなってしまいます」
暴発を、行動を起こす前に少しだけでも抑えることで、少しでも考える時間が必要だと。そういうことなのだろうか。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
「……それは?」
「先生の言葉です。先生はこの言葉どおりに行動して、そして獄中の人となったわけですが……どちらの見込みがあるのか、正確に判断するにはやはり、勢いだけでは足りません」
だから自分が抑制力になるのだと。そう言い切ることの出来るこの青年は、とっくに覚悟を決めているのだろう。世の中の大きな流れに巻き込まれて、それでも自分の立ち位置を確かめてしっかりと立ち続けようとしている。同い年なのに云われるまでそうとは気付かなかったのはきっと、こういった覚悟の有無が大きくて。
俺は自分がひどく小さなものに感じられて、話の方向を少し変えることにした。
「それで、その先生の処遇はどうなりそうなんだ」
「まだわかりません。けれど、一番重くて遠島……流刑、でしょうか」
そうなると文やら差し入れやら、いろいろと大変なことになりそうですと。そう言いながら浮かべた笑顔は確かに無害そのもので、暴走しようとする人間を苛立たせるか拍子抜けさせるかして、一旦抑えることはできそうだった。
「けれど、それもあなたには関係のないことです」
突き放すような言い方を、にこやかな笑顔のまま言うから。そうしてようやく気が付いた。こいつ、目が笑ってない。
「関わろうとしない俺は卑怯に見えるか?」
「いいえ。そのようなことを言う資格を僕は持っていません」
軽く首を振って否定して。そうして笑ったまま、古泉は言った。
「ただ、あなたは僕たちと関わりの無い世界にいる人。その線引きは大切なものだと思いますよ」
それはこいつの本心なのだろう。覚悟のない人間が関わったところで、ろくなことにならない。だからその話はそれっきりで、あとは当たり障りのない話題になった。
ただの友人ならそれで充分だ。
三.
肌寒さを感じるようになる頃、俺は古泉とよく二人で飲みに行くようになっていた。理由は簡単で、友人たちのほとんどが不在、もしくは忙しくしているからだ。
古泉の仲間であるところの高杉たちは、国からの呼び出しで帰国してしまった。まだこちらに来たばかりで成績も素行も優秀な古泉だけが滞在を許されたらしい。大野は捕らえられていた先生の処遇が決まったとかで忙しいらしく、ちっとも顔を見せない。大野の先生は大野の祖父の友人でもあって、他の塾生よりもやらなければならないことが多いんだそうだ。
それまで俺は相変わらず会合には参加しなかったものの、学問所内で集まってガヤガヤとしていた連中が急にいなくなると何だか物足りないというよりも、寂しさを感じてしまう。あれほど煩いと感じていた連中の声がどうにも懐かしく思えてしまうものだ。
だからだろう。そうして周囲に取り残された形になった俺は、半ば仕方なく古泉の酒の相手をしている。小難しい話を長々と説明されるのは少々鬱陶しいと感じられなくもないが、慣れてしまえばそれなりに面白い時もあった。それだけヒマをもてあましているということだ。
「攘夷とは、無闇矢鱈と異人を斬ることではありません。異人は強力な軍事力を有している。我々の持つそれとは比較にならないほど大きなものです。だから我々はまず、その力の差を埋めなければならない――そういった考えもあって、先生は黒船に乗ろうとしたようです」
古泉はさらりと言ったが、その「先生」の行為は立派な国事犯だ。
「敵に勝つにはまず敵を知れってことか」
「ええ。結局失敗してしまい今に至るわけですが」
今と言うのはつまり国事犯として御公儀に捕らえられている現状のことか。
「あなたは愚かだと、思いますか? 自ら国禁を犯し、弟子には暴発を促し、国主にも家族にも迷惑をかけながら行動せずにはいられない人を」
どうだろう。俺は自分に聞いてみる。今までは確かに愚かな人だと思っていたはずだ。伝え聞いた彼の人の行為はどれもこれも無謀なものばかりで。
「古泉、お前はそれでもその人を師と慕っているのだろう?」
「はい。……もちろんです」
「だったら愚かだとは思わないさ。それだけ無茶苦茶やっても尊敬を得る人を、どうして愚かだと思う」
古泉だけではない。国へ帰った高杉たちも、出立する直前まで師の安否を気にしていた。伝え聞くだけで実際に会ったことはないが、それだけ魅力をもつ人なのだろうと。
そう言うと古泉はひどく驚いたような表情をした。それから慌てて取り繕うように「ありがとうございます」と何に対してなのかよくわからない礼を言って、笑った。そのどうしようもなく嬉しそうな、けれどどこか疲れているようにも感じられる笑顔を見て、思う。
いつもと変わらぬように振る舞っていても、同じ笑顔を浮かべていても。一人残されたことを心細く思っていたのかもしれない。
そんな気がした。
一度だけ、彼等の宴会に参加したことがある。高杉の出立前のことだ。ほとんどが高杉や古泉と同郷の人間だったが他の関係者も多いということで、今日くらいは大丈夫だろうと大野に誘われた。
それでも話の内容の多くは、時勢に関することだった。前途有望な二十から三十代の若者たちが集まれば、どんな集まりであってもそういう方向になるのは当然のことで。けれど自分はそれに参加せず、少し距離を置いて眺めているだけの態度をとる。そうやっていつもと同じ立場を守りながら、いつもとは違うことを考えていた。
古泉は、無闇矢鱈と異人を斬ることが攘夷ではないと言った。けれど、政治的な力を持たない俺たちにできることなど何もない。異国は脅威だ。その未知なる軍事力も経済力も、見慣れぬ容貌も理解不能の言葉も、何もかもがただ恐ろしく、恐怖の対象だ。どんなに大儀を口にしても、飾り立てた文句で言い繕っても、その事実は動かない。
恐怖を抱いてじっとしていることはできない。行動力ある若者なら尚更だ。恐ろしいと思う、その感情を克服するために彼等は選ぶ。言葉か、行動か。
けれど俺が選んだのは言葉でも行動でもなく「無関心」だった。関心を持たなければ、言葉も行動も必要ない。漠然とした恐怖心を飼い馴らし、熱く議論を交わしたり過激な行動をとったりする人間たちから距離を持って。
「初めの頃は、それでよかったんだ」
土手に腰を下ろして、適当に指先に触れた草を毟る。隣に座る大野は、秋の陽射しを跳ね返しながら流れる川面を眺めていた。
「議論を交わしている連中は、どこか足が地面に付いていないように感じていた。理想論を語って、今の情勢を推論して、政治を批判して。それだけなら攘夷も何も関係なく、いつものことだからな」
特に学問所内ではそうだった。それぞれの出身国の事情など様々な問題を抱いていても、家も継いでいない書生が背負うものなどたかが知れている。言いたいことを言い合って、けれどそれは、どこか現実味のないもので。
「だけどさ、大獄の後はちょっと違った。俺たちにとっては他人事でも、他人事じゃない連中が身近にいた」
大老による大獄。捕まった者たちと、その安否を気遣う友人たち。
「その連中の話は、浮ついた『いつもの議論』なんかじゃなかった。実際の問題なんだ。もちろん攘夷も尊王も結局は遠い話で、俺にはやっぱり、どこか遠いことにしか思えない。だけど、」
「間接的にでも身近に感じて、今までのように無関心ではいられなくなったか」
「まあ、そんな感じ」
風が冷たかった。雪の季節はもう近い。視線を転じて突き抜けるような秋晴れの空を見上げた大野が、そのまま溜め息を吐いた。
「今更だな」
「大野から見れば、そうだろうな」
「それで? 無関心でいられなくなって、どうするんだ?」
そう、それをずっと考えていた。俺はどうするのだろうか。どうしたいのだろうか。
このまま無関心を続けることはもう、たぶんできない。答えを先延ばしにし続けていた今の俺に、できることがあるとすれば?
「とりあえず、古泉のことを頼んでもいいか」
「古泉?」
どうしてそこで、その名前が出てくるのだろうか。
「昨日、国の江戸屋敷に呼ばれてから帰ってこない。呼ばれた理由は、想像つくだろう?」
関心を持っていなくても、周囲の会話は耳に入ってくる。そしてあの夜の、彼の疲れたような微笑をまだ、鮮明に覚えているから。
「俺は行くことができない。どんな顔を合わせればいいのか、まだ決めかねているんだ。だからお前が行ってくれ」
一番関係のなかった人間だからこそ。
四.
世界に大きな流れみたいなものがあるのだとすれば、それは俺たちのような小さな存在のことなど歯牙にもかけずに流れてゆくものなのだろう。俺たちの想いや切なる願いにも素知らぬふりをして過ぎ去ってゆくに違いない。この場合の世界とは、もちろん俺たちを取り巻くこの環境のことだ。最近では諸外国をすべてひっくるめて世界と呼ぶようだが、見たこともない海の向こうの外国とやらを実感するのは難しい。
俺には未だ、その世界の流れに身を投じる覚悟を持ってはいなかった。いつか先のことだと、もしかしたら生涯関わることもないかもしれないとすら思っていた。しかし覚悟の有無など関係なく、世界の流れは俺たちを飲み込んでゆくものらしい。俺たち想いも切なる願いにも素知らぬふりをして過ぎ去ってゆくというのに。
そう、覚悟の有無など関係ない。覚悟を持たない俺も、強い覚悟を持っていたはずの古泉も、同じようにただ巻き込まれるだけだ。
世界は無情に、何もかもを飲み込んでゆく。
大野は「どんな顔を合わせればいいのか、まだ決めかねている」と言った。大野の先生は江戸付近に立ち入り禁止という処罰となって下総の田舎に移り住んだとかで、大野が新居まで見送ったらしい。その大野が顔を合わせられないのだから、古泉たちの先生がどうなったのかだいたい想像はついた。
取り乱しているのだろうか、あの古泉が。落ち込んでいる様を想像することはできたが、感情のままに取り乱すことはないように思えた。しかし、彼の中で先生がどれだけ大きなものであったかは、その様子を断片的にでも眺めていればよくわかることだ。面会することはできないようだったが、金子や本などの差し入れを毎日のように行い、何とか中の様子を聞きだし、それを国許の仲間に手紙で書き送っているようだった。聞けばそれは、高杉が帰国前に行っていたことの引継ぎでもあるのだという。よく姿を消す男だとは思っていたが、そんなことをしていたとは知らなかった。
大野はきっと、すべて知っていたのだろうな。だからこそ、顔を合わせることができないんだ。
出会ったばかりの頃、古泉は「一番悪くて遠島」と言った。とんでもない重罪だがそれくらいの覚悟はしていたのだろう。彼らの先生の行為は、それだけ過激だったから。
その覚悟をしていたはずの古泉が、帰ってこない。
そして遠島よりも重い刑は、ひとつしかなかった。
古泉の国の江戸屋敷に赴いて門番に用件を述べると、近くの料亭を教えてくれた。俺が唯一参加した集会、高杉の送別会を行った場所だ。そこに古泉がいるのだという。
教えてくれた門番に礼を言ってそちらに向かう途中で、背の高い男に声をかけられた。相手の態度はとても親しげで、俺のことをよく知っているようだが、困ったことに俺はこのひどく顔の良い相手のことをぼんやりとしか覚えていない。
えっと、最近もどこかで見たような気はするんだが。
「そういえば直接話をするのは初めてだったね。君の事は高杉からよく聞いているよ」
思い出した。桂さんだ。
「もしかしてこれから、……古泉に会いに行ってくれるのかな」
「そのつもりです」
「そうか」
桂さんはうんと頷いて、それなら君に頼もうかなと呟いた。
「古泉に伝えてくれ。国許へは私が伝えたから、君は何も案ずることはないと――あまり気に病むな、と」
「今、会ってきたのではないのですか?」
「会うつもりだったが、断られてしまったよ。誰とも顔を会わせようとしないんだ。女中の話から、とりあえず正気を保っていることはわかっているんだが……たぶん君なら大丈夫だろう」
ここでも同じことを言われる。部外者だからこそ。部外者だったからこそ。
「関わることを避けていた君に頼むのは、少し気が引けるが」
「いえ。それはもういいんです。ここまできたらもういっかな、って気持ちになりつつあるので」
「……それはそれで感心しないけれどね」
小さな溜め息を吐いて、相手は疲れたように笑った。
友人たちから「桂さん」は忙しい人だと聞いた。高杉の見送りにも遅れて、馬を走らせてきたのだという。だから帰りに顔は見たが、挨拶はしなかった。あれが桂さんだよと教えてもらっただけ。
けれど彼の疲れた様子は忙しさによる疲労だけではないのだろう。きっと、そこには強い喪失感があって。
―――唐突に、思う。喪うというのはどういうことなのだろうか。
今まであったものがなくなってしまう。この世のどこを探しても、もう二度と、見ることも触れることも叶わない。
それは一体、どんなものなのだろうか。
ところで、古泉は片づけが苦手らしく、寮の部屋はいつも物が散乱して同室の学友たちを嘆かせていた。寮生活でそもそもの所有物が少ないから惨事には至らないし、物が散乱しているだけで決して汚れているわけではないのだが、それでも本人の容姿などからはまったく想像がつかない部屋だ。道ですれ違うたびにきゃっきゃと騒ぐ町娘たちに是非見せたいと常々思っている。
だから料亭の女中に「ここです」と示された襖を開く時、それなりに室内の状態を予想していた。足の踏み場と座るところを確保して、ついでに座布団でも探すかと思いながら「入るぞ」と声をかけ、無造作に襖を開く。
予想に反して、小さな室内はとてもきれいだった。
―――と言うより、部屋には何もなかった。
「……何してるんだ、お前」
本当に何も無い部屋でただ座っているだけ男に向かって、かける言葉が他に思いつかない。
「あー、大野が心配してたぞ。なかなか顔を見せないから」
「合わせる顔が思いつかないだけですよ」
どこかで聞いたような台詞を吐いた古泉は、いつものように笑っていた。
目元が赤い。声が掠れている。
それでも彼は笑う。それしか表情を知らないとでも言うように。
その目の前にとりあえず腰を下ろしながら、俺は溜め息を吐いた。
「さっき桂さんに会った。国許にはすでに連絡したから心配するなってさ。忙しい人なんだろ? あまり心配かけるなよ」
「そうですね」
頷く。それから少し間を置いて、困ったように笑った。
「あなたが来るとは思いませんでした」
それで取次の時間が長かったのか。玄関先でだいぶ待たされたぞ。
「それもありますが、どういう顔をすればいいのかわからなくて」
そう答える声を聞きながら、なんとなく、気付いたことがあった。こんな料亭に籠もって、誰にも会わず、顔を合わせずにいる理由。
「お前、泣いている姿を人に見せたくないんだろう」
だから、強い喪失感を抱いて、それを誰にも分かち合うことなく一人でいるのだろう。共有できる人間は遠く離れた場所にいて、ああでも、こいつは近くにいても共有しようとはしないのかもしれない。分かち合うことができるからこそ。
頭のいいこいつは、悲しみや喪失感を分かち合っても無意味だと思っているのかもしれない。そんなことをしても何にもならない。何も生まれない。だったら一人で、何もかもを抱え込んで。
そこまで考えて、不意に思う。たとえば喪失感とは無関係で、だけど事情を知っている人間が側にいたら。分かち合うのではなく、ただ吐露するだけの相手が側にいれば。
感情は内に抱え込むよりも、外に出してしまった方が楽になるから。
「ごめんな、古泉」
思わず零れたのは謝罪の言葉だった。
「俺、他国の人間だし何も出来ないけど、直接関係ない人間だから話を聞くことくらいは出来たのにな」
国の人間でもなく、事件に関係してもいないから。他の関係者には決して言えない、弱音や愚痴なんかを聞くことができたのに。
「関わらないようにして距離を置いて。だからお前も遠慮してたんだろう?」
古泉の驚いたような表情は、そういえばこれで二回目だ。ぽかんと口を開けて、目を見開いて、ずいぶんと間抜けた面だ。
それがすぐに崩れて、笑顔から一番遠い表情になる。
「俺は何もできないけど、――そうだなぁ」
冗談交じりに言葉を続ける。そうしないと空気がどんどん重くなってしまいそうだったから。それはもう、終わりにしたかったから。
「泣きたい時に肩を貸すことくらいは出来るぜ?」
男の肩なんか借りても嬉しくないだろうがと、続けようとした言葉は行き場を失ってしまった。
古泉が本当に、肩を借りてきたからだ。
「おい、……古泉?」
泣いてはいない、と思う。俺の右肩に当たっているのは、たぶん古泉の額だろう。頬や首筋に髪先が当たってくすぐったかったが、服の布地を掴んで白くなっている指先を見たら、振りほどく気は失せてしまった。
「もう少しだけ、このままで」
微かに震えている声。だけどきっと、絶対にこいつは泣かない。
「好きにしろよ」
手持ち無沙汰になった両手を、相手の肩にかけたり背に回したりするのはどう考えても妙に思えたので、泣いている妹をあやす時のようにぽんぽんと頭を撫でてやった。
触れ合った布越しにじんわりと相手の体温が伝わってくる。くしゃりとやわらかく掴んだ髪が熱を孕んでいる。それは肌寒いこの季節には、どこか心地よく感じられるものだった。
―――誰かを失うというのはきっと、この熱が消えてしまうことなのだろうと不意に納得する。
古泉たちの先生は、斬首刑だった。
五.
大老による大獄が、まったく自分に関わりの無いものかというと実はそうでもなかった。国主様が大老の決定する処罰があまりにも強圧すぎると批判し、意見書を提出したため大老の怒りを買い、寺社奉行の職を罷免させられていた。老中職への道は閉ざされてしまったが、もともとそれほど大きくない国のことである。老中になって面倒な仕事が増えるようなことにならずに済んで良かったのかもしれない、と言う人もいた。俺も同意見だ。世の中の混乱は少しずつ、見えないような場所で本当に僅かではあるが広がりつつあり、数年後にはどうなっているかわからない。火中の栗を拾うようなまねは、避けた方が懸命である。
とにもかくにもそんなわけで、新参者である俺に対する古泉の仲間たちの印象は決して悪いものではなかった。被害の程度はあれど、うちの国許も確かに大獄の被害者側ではあるからな。
彼らの先生が処罰を受けたことで、彼らの活動は過激さを増していた。今までは捕らえられた者たちの安否を気遣って、大老を中心とする治世者たちに刺激を与えないようにしていたが、これからはそういう配慮がいらない。それ以上に、感情の違いが大きかった。
大切な者を喪った。その喪失感の大きさを、そのまま攻撃に変えるべき相手がいる。それは、自分たちから大切な者を奪った存在。
彼らはもう、治世者を御公儀とは呼ばない。尊称も敬称もなく、ただ幕府と呼ぶ。
「『幕府』というのは蔑称でもあります。天皇から政権を委任された立場、という意味を持つ呼び名ですから」
「今の政権は預けられたものに過ぎない、と」
「そういうことです。預けられた立場がきちんと治世を行うことができないのならば、その政権は返さなければならない。その場合、返す先はどこになるのか」
「……京におわします今上帝、天皇陛下、か」
詭弁だ。新参者とはいえ今まである程度の距離を保ってきたからこそ、冷静に観察することができる。けれどこれが勤皇論の根源であり、大獄以来、勤皇論と攘夷論は急速な歩み寄りを見せている。
幕府から天皇へ政権を返したい勤皇派。
異国の言いなりになっている様に見える幕府に失望した攘夷派。
「こういうことを言うと怒られるというか私刑に遭うような気もするんだが……ひとこと言ってもいいか?」
遠慮がちに尋ねると、相手――古泉は軽く首を傾げて「どうぞ」と続きを促した。周囲に誰もいないことを確認してから、声を潜めて言葉を続ける。
「天皇なんて『大日本史』とか『太平記』や『日本外史』を読むまで知らなかったぞ俺」
「僕もです。誰も彼もそんなものですよ。言わないだけで。でもあまり公言はしない方がいいですね。特に水戸の方々の前では」
「わかってる。俺もそんな命知らずなマネはしない」
水戸は『大日本史』を編纂した光圀公のお膝元であり、勤皇論の発祥地だ。水戸派といえば勤皇論の主勢力であり、論が激化しすぎて過激な行動も多いと聞いている。年が明けた頃から活発に行動しているのも、やはり水戸の志士たちだった。
志を持つ士だから志士。最近では誰も彼もがこの呼称を好んで使っているようだが、志の根ざすところは人によって様々だ。
では、最近その活動に関わりつつある俺は?と自問していると、古泉の困ったような表情が視界に入った。こいつは本当に、笑っているか困っているかのどちらかしか見せないな。どちらでもなかったのは一度きりだ。
「何かあったのか?」
「水戸派で少し、思い出したことがありまして……いえ、些細なことですから気になさらないで下さい」
そう言われると余計に気になるのだが、あえて追求はしなかった。古泉は時々、こうやって言葉を濁す。
初めの頃は、俺が関わろうとしないから遠慮しているのだろうと思った。だが積極的とは言えないまでも彼らの会合に参加するようになり、関わりを持ち始めた最近でも古泉はこの調子だ。
だから、たぶん。
「古泉はあまり、俺が関わるのを好ましく思ってないみたいだ」
俺がそう言うと大野は汁粉をすすりながら「ふーん」と気の無い答えを返した。
「お前の態度が急に変わったから、出方を見てるんだろ?」
そういうものなのだろうか。
「志士って言ってもいろいろだからなぁ。今のところ、まだ確たる方針がないから無謀な暴発も多いようだし。俺たちだって、どうするか決めかねて様子見している部分が多いんだ」
無謀な暴発、計画性のない暴発は危険なだけ。似たようなことを、彼も言っていた気がする。今はまだ、様々な志を持つ人間がばらばらに活動している段階だ。ここからもう一歩進んで、具体的な計画性を持ち協同して活動を行うには、まだ遠いだろう。
何故なら統率者がいない。
「政治的、軍事的な力と、あとは求心力。それらを兼ね備えた活動の統率者が現れない限り、暴発はただの暴発で終わるだろうな」
「そうやって、冷静に判断している割に発言は過激じゃないか?」
やれ誰々を斬れだの、異人を排除しろだの、外に漏れればどうなるかわからない発言が目立つのは俺の気のせいか?
「今は発言だけだが、いつか必ず実行して見せるさ。物事には段階があるんだ。会合を重ねて計画を立てているうちに実行が可能なことに思えてくる。それが気のせいだとしても、だ」
「気のせいって……失敗したら?」
「その失敗を、次に誰かが生かすだろうさ」
簡単なことのように言うその声は、自信とは違った意味で揺るぎないもののように思えた。
「ただ議論を繰り返しているだけではダメなんだ。重要なのは実践すること。行動を伴わない言葉など、無意味なんだ」
少しでも見込みがあるならば、いつでもこの身を投げ打つ覚悟を。
これは古泉たちの先生の言葉だけどなと言い添えて、大野は笑った。ああ、きっとこいつも、その先生の言葉に心を打たれた一人なのだろう。危ういほど真っ直ぐで、僅かな不純物も存在しない言葉。
その言葉のとおりに実行して、そうしてどうなるのかはすでに先生がその身を以って示している。次へと繋ぐ踏み台となっている。
「そうやって少しずつ前進していって、いつかは統率者が現れて。世界が変わるには段階が必要だ。そして最初の段階は踏み台にされるものだろう?」
これは自信ではなく、確信だ。
若いからこそ、先に広がる世界を信じているからこそ。言葉にすることが許される理想論。踏み台にされることなく消えてゆく失敗もあるだろう。先へと繋ぐことが出来ない成功もあるだろう。しかし、それらの可能性をすべて踏まえた上で大野は確信している。
「たぶん古泉もそう思っているのだろうな。いつかは自分も、活動の犠牲になると。志が強ければ強いほど、危険度は増す。だからお前を巻き込みたくないんだろう」
どうしてだ?俺がろくな志も持っていない新参者だからか。それとも俺の覚悟が足らないから?
「いや、そうじゃなくて」
空の椀を置いた大野は、わからないかなぁと溜め息を吐いた。
「古泉はきっと、お前を喪うのが怖いと思っているのだろうよ」
「……は?」
俺を喪うのが怖い? 誰が? 古泉が? まさか。
そんなはずはないだろうと笑い飛ばそうとして、何やら確信しきっている様子の大野に怯んでしまった。どうしてそこまで確信できるのか不思議だが、彼にとっては疑問の余地の無い結論らしい。まさかそんなはずがあるか。
出会ってまだ、半年も経っていない。お互いのことなどほとんど知らない。共通の友人がいるだけで、あとは少しだけ、部外者だったからこそあの夜のようなことがあっただけで。
ああ、それだ。きっとあいつは、俺にあのまま部外者でいて欲しかったのだ。関係者の前ではとても言えないような弱音や愚痴なんかを言えるような相手。それが欲しかっただけに違いない。
「それもあるかもしれないけど、古泉も悩んでるんじゃないか?」
関係者になって欲しいのか。部外者のままでいて欲しいのか。一体どちらであって欲しいのか。
悩んでいるからこそ、言葉を濁す。態度が曖昧になる。それは同意できる気がした。
六.
それは春が近いことを感じさせるような日だった。なぜなら今日は桃の節供。町屋はもちろん城内でも祝い事があるため、朝からどことなく騒がしい。
そしてそんな中、天から舞い降りたのは季節外れの雪。
「何も、こんな日に降らなくても……」
零れた愚痴は誰も聞いていない。そろそろ昼頃になるのだが、何故か学問所内はがらんとしていた。人がいない。
今日は講義のない日だが、試験が迫っているこの時期は質問のために講堂へ集まる人間が多いはずなのに。残っている人間も、どこか興奮した様子で話し込んでいて、試験に備えている様子はなかった。何かが起こったことはわかるのだが、自ら尋ねようとは思わない。もうしばらく待っていれば、何事かを野次馬しに行った連中が帰ってきて詳しく教えてくれるだろう。
そんな風に思いながら適当に冊子をめくっていると、昼時もだいぶ過ぎた頃になって、聞きなれた声で名を呼ばれた。顔を上げると予想どおり、目の前には古泉がいる。
「外、寒そうだな」
「え?」
「頬が赤い」
手を伸ばして触れると、ひどく冷たかった。火鉢の一番近くを陣取っていたため、少し火照った身体には気持ちのよい冷たさだ。
「何かあったのか?」
尋ねながら見渡せば、何やら興奮した様子の人間たちがぼちぼちと帰ってきている。帰ってきていない人間たちは、そのまま酒でも飲みに行ったのだろう。そろそろそんな時刻だ。
「……一緒に来ていただきたい場所があります」
「わかった」
ちょうどいい。俺もお前に聞きたいことがあったんだ。そう思いながら頷いて、立ち上がる。綿入りなどを羽織って寒さに対する支度をしながら、俺は不意に思いついて手にしていた襟巻きを古泉の首に巻きつけた。
「貸してやる。耳まで真っ赤だ、風邪引くぞ」
「ありがとうございます」
そう礼を言っていつものように笑って見せるが、その表情は固い。
「古泉」
名を呼ぶ。相手は笑って応える。いつもと変わらなくて、でも、確かにいつもとは違うと感じる。以前にもあった感覚だ。だから。
「何があった」
尋ねても、古泉は何も答えない。
「一緒に来てくだされば、わかります」
何を見せるつもりなのかはわからないが、それ以上説明する気はないのだろう。ならば、仕方がない。
古泉が向かったのは、城内に入るための門のひとつだった。
学問所からは、城外をぐるりと回って反対側にあたる門だ。薄く積もった、けれどほとんど溶けてしまっているような雪につま先と袴の裾とを濡らしながら、無言で歩く古泉の後を付いて行く。
頭上には灰色で塗りつぶされたような空。周囲は見慣れた風景のはずなのに、何故かひどく静かで、知らない場所のようだった。
たどり着いた場所に広がっていたのは、長い武家屋敷の塀に囲まれた静かな場所。たくさんの足跡が残っているから、つい先程まで大勢がここに集まっていたのだろう。
そんな風に思いながら顔を上げる。
目の前に立つ古泉の肩越しに広がっていたのは、
血の惨劇だった。
何人もの人間に踏み潰された雪上に、いくつもの血溜まりが広がっている。
すべての始末が終わったあとなのだろう。何も残されてはいないが、血生臭い匂いは確かに残っている。だから、何があったのか想像することは可能だった。
今日は何の日だったか。そうだ、桃の節供だ。城内でも祝い事があって、臣下たちは参内することになっていて。だからその途中を襲われたのだろう。
「狙われたのは誰だ」
「大老です。籠に乗っているところを討ち取られたと聞きました」
天下の往来で、白昼堂々、治世者の頂点に立つ男が殺された。
それは、それは何て――。
「実行者は水戸人、そして薩摩の人間だそうです」
「その中の、生存者は、」
「そう、多くはないと聞きました。まだ情報が混乱しているようですが……」
捕縛されれば死、国に帰っても保障はない。自ら命を絶った者も多いだろう。
灰色の空の下、一歩、二歩と足を前に出して。古泉よりも少し前に出て、けれどそれ以上は進むことができなくなって立ち尽くす。
これは、この景色は。よく似たものを、俺は知っている。
「寒椿だ」
肌に突き刺さるような冷たい季節に、凛と咲く赤い花。目に焼き付くような色をしたまま地上に落ちるその様は、潔さを感じさせる。
成立しても失敗しても、結末は同じだ。踏み台とされて次に繋がるかもしれないし、無駄に終わるかもしれない。それでも彼らは躊躇しない。止まることができない。
それはひとつの潔さであって。
―――いま俺の目の前に広がる光景は、雪上の寒椿だ。
踏みにじられても尚赤く。
「これはお前の、お前らの覚悟の色なんだな」
胸に鈍い痛みが走って、声が震えた。
今まで敬遠していた世界は、こんなにも美しく、そして醜く。
何よりも高潔で、どうしようもなく幼稚だった。
それを間近に感じていながら見ないふりを続けていた俺は、それでは一体、今までなにを見てきたというのだろうか。
危うさを感じたから距離を置いていた。その予感は正しくて、けれどその本質までは見抜けないまま、中途半端な距離を今でも持っていて。こんな自分を、彼はどんな思いで見ていたのだろうか。
急に、後ろに立っている相手の表情が気になった。
いつものように笑っているのだろうか。時折見せる、困ったような表情を浮かべているのだろうか。それとも?
確認しようと振り返ろうとして、できなかった。古泉が後ろから抱きすくめてきたからだ。
「古泉、痛い」
「はい」
返事をするだけで、俺の身体を縛る腕の力は少しも変わらない。
「古泉」
むしろ、名を呼ぶたびに力強くなっているのは気のせいか。
その腕から逃れることは諦めて、相手の好きなようにさせながら。それでも溜め息をひとつ零して尋ねずにはいられなかった。
「お前は一体、俺をどうしたいんだ」
巻き込みたいのか、そうではないのか。関係者になって欲しいのか、部外者のままであって欲しいのか。
息を呑む音が聞こえて、けれど抱き締められたままではその表情はわからなかった。
その夜、俺は熱を出して寝込んだ。翌日も高熱が下がらず、寮の人間に配慮して国の下屋敷に強制送還されることになった。
ここ数日の気温の変化に耐えられなかったのか。それとも寒い雪の中、何時間も立ち尽くしていたからか。とにかく、ちょうど良かったと熱に魘されながらも安堵した。
次に会う時、彼はどんな顔をして、どんな言葉を俺に向けるのだろうか。対する俺は、どんな顔で、どんな言葉を返すべきなのだろうか。その答えがまだ出ていない。
大野は何度か様子を見に来てくれたが、古泉は一度も顔を見せなかった。あいつもあいつで、やはり答えが出せていないのかもしれない。それでなくても、他国の屋敷には訪れにくいものがある。そんなことお構いなしに出入りする大野が特殊なだけだ。
数日かかってようやく熱も下がり、学問所に戻る頃、俺はひとつの答えを出していた。これでいい。これ以上の答えは、きっと、俺には出すことができない。そう納得しながら。
けれど学問所どころか江戸のどこにも、古泉の姿はなかった。
一度も顔を合わせないまま、答えを出さないまま、古泉は混乱の中心地へ旅立ってしまった。
七.
俺が古泉に対して思うところがあるとすれば、それは何も言わずに姿を消したことであり、それ以上は何もない。聞けば、俺以外の人間にはきちんと話をしていて、その上で俺へは伝えるなと念を押していたらしい。忌々しい。そんなに俺と顔を合わせるのが嫌だったのか。
けれど一番忌々しいと思うのは、厚着した布越しでも確かに感じた相手の体温を忘れられない自分自身だ。後ろから、抱き締められた時の腕の強さなんかを、なかなか身体が忘れてくれない。首元で感じた吐息や、かすかに感じられた鼓動の音も。
忌々しい。ああ忌々しい。どうしてこんなに俺があいつを意識しなければならないんだ。高熱に魘されながらそればかりを考えて、回復したら一発殴ってやろうと思っていたのに、当の相手は雲隠れしやがった。
これで気にならないという方がおかしいだろう。
春の雪が嘘の様な晴天が続いて、雨の季節も終わり、夏が訪れた。
「古泉は京都で連絡係を務めている」
そう言ったのは、国許から再び江戸へ出てきていた高杉だった。今年の正月に嫁を貰い、突然船に乗って江戸へ来たと思ったら今度は東北へ遊学に向かうらしい。今日はその出発前の宴会だ。
「各方面の活動者の動きはバラバラだ。ちっともまとまりを見せていない。国ごとに、じゃない。すでに個人で動いている部分が多い」
京都で動いている人間は脱藩者がほとんどだからな。古泉は、何かの方法を使って京都屋敷付きの処遇を得たらしいが。
「あいつは桂さんの遠縁だから。桂さんが納得できるきちんとした理由さえ用意できれば、ある程度の自由を獲得できる」
僕とは違って。と、その言葉に続くようだった。
高杉は両親からの、特に父親からの干渉が強いものであるらしい。師の安否を気にしながら国許へ帰ったのも、妻帯したのも、やはり父親の命令だ。
反発しても拒絶することはできない。高杉はそういう風に育ってきたし、それ以外の生き方はできないだろう。身軽な仲間たちのように活動することはできず、鬱屈した思いを抱いていることは傍目にも明らかだった。
「なあ、高杉。聞きたいことがあるんだ」
空になっていた相手の杯を酒で満たして、躊躇いがちに俺は尋ねた。これは、本当は古泉に聞きたかったこと。
「お前たちは結局、何がしたいんだ?」
覚悟がある。対象がいる。なのに、何がしたいのか見えてこない。
個人がばらばらで動いている現状。目的も様々にありすぎて、さらには誤解も蔓延していて、どうなっているのか明瞭としない。
杯の酒を飲み干し、周囲を軽く見渡して聞いているものがいないことを確認してから、高杉は口を開いた。
「何がしたい、じゃない。何かしたいんだ」
「どこが違う」
「後者には目的がない。行動することに意味があって、失敗することもまた、可だと思っている」
―――次へと繋ぐ踏み台となること。
「とにかく動かずにはいられないんだよ。ひたすらに動いていれば、いつか何か得られると思っている。明確な目的が見えないのはそのためだ。だから不明瞭だと感じてしまう」
そういうことだろうと言葉を向けられて、黙って頷く。高杉の言うとおりなのだろう。
少し前から江戸へ来ている久坂は、精力的に活動を行っている。手紙を書き各方面との繋がりを持ち、上層部から幕閣の情報を入手して仲間たちと議論する。しかしその目的が俺にはわからなかった。
今なお微妙な距離を保っている部外者だから内部まで知ることはできない、という理由もあるのだろうが、それにしたってこれでは不明瞭すぎるだろう。とにかく彼らが何をしたいのかわからない。
何がしたいのではなく、何かしたい。そのとおりかもしれない。
「幕府に対する恨みは持っている。仇討したいとも。けれどそれは、あまりにも途方のないこと。あの強大な幕府を転覆させることなんて不可能。それでも、何かを変えることくらいならできるかもしれないから」
これ以上、何も喪わないために。奪われることの無いように。
「だから君は関わらない方がいい」
唐突にいわれた言葉に、俺は顔を上げた。
「なぜ」
「距離の取り方が以前と変わった気がする。前はとにかく関わらないようにしていたようだが、今は関わることを躊躇しているように見える」
高杉の真っ直ぐな視線が、俺を射抜く。
「君は確かに、何かを恐れている」
杯を持った手が動かない。視線を逸らすことが出来ず、硬直する。
「この半年の間に君はいったい何を見た」
何をと、問われたら。答えはひとつしか思いつかない。
「……覚悟の色を」
雪上の寒椿を。
灰色の空。無音の世界。ひたひたと静かに迫る不安と圧迫と、駆け出したくなる衝動。
その衝動をまだ確かに覚えているから、高杉の言葉を理解することができた。何かをしたい。目的がわからずとも動いていたい。何もせずにただ立ち止まっていることはできない。
けれど、その先にあるものは?
「高杉」
俺が答えを出す前に、横から大野が声をかけてきた。
「向こうで久坂が呼んでいる」
「え? ……あ、本当だ」
頷いて、俺に向かってちょっと視線を送った後、高杉は立ち上がって手招きしている久坂の傍へ向かった。
そして空いた席に大野が座る。
「聞いていたのか」
「まあね」
手酌で杯を満たして、大野は小さく笑った。
「今ここで、性急に答えを出す必要もないだろうと思って。半年近く悩んだ答えが今すぐに出るとは思わない」
「悩んでいるように見えたか?」
「気にはしていただろう」
そのとおりなので何も答えなかった。代わりに別の言葉を選ぶ。
「古泉は京都にいるんだってな。京都には他にも誰かいるのか?」
「久坂たちの仲間で、という意味なら、他にはいない。京都での情報収集とか、個別に行動している同志の間を取り持ったりとか。そういうことを、古泉がほとんど一人でやっているはずだ」
高杉が言った「連絡係」というのは、そのことなのだろう。
「今の京都の状況を教えてやろうか」
急にそんなことを言って、大野は杯を置いた。
「個別に行動していると言うことは、考え方や思想が何通りもあるということだ。尊皇攘夷と一口に言っても、そのあり方は様々。味方かと思えば敵方だったり、微妙な意見の違いで敵と勘違いされて斬られたり」
「勘違いで斬られるのか」
「向こうではもう武力行使の段階に入りつつある。一人が刀を抜けば、死にたくないからもう一人も刀を抜く。斬りあいになる。一人が斬られれば、その仲間によって仇討が繰り返されていく。そうやって、どんどん物騒な場所になりつつあるんだ」
どうしてそんな話を俺にするのか。意図はわからないが目的はわかった気がした。
そんな危険な場所に、古泉は一人でいる。
「俺が出来るのは助言だけ。どうするのか決めるのはお前自身」
俺は何に対して躊躇しているのか。何を恐れているのか。それらがわかるのは、当たり前のことだが俺自身だけで。そして。
「自分が何をしたいのか、本当はもうわかっているんだろ?」
ああ、そのとおりだ。答えならすでに出している。
忌々しいと思いながら、どうしてもあの熱を忘れることができないのは。腕の強さも、吐息も、鼓動も、何一つとして消し去ることができないのは。
理由は簡単なものだった。ただ、どうしてそうなったのか理解できなくて。理解したくなくて。
「悔いるのは後からでもできる。今は、今できることをやってみたらどうだ?」
出来る限りの協力はしてやるよと。そう言って笑った大野に背を叩かれて、ようやく俺は半年近く逡巡していた答えにたどり着くことができた。
たどり着いて見れば、まあ、ひどく明瞭な答えだったな。
八.
自分の国の、とは言えツテも何も持っていない俺のような三男坊が江戸屋敷で話をつけられそうな人物といえば一人しかいなかった。それも大野の協力のおかげだ。
出来る限りの協力は、と本人が言ったとおり、本当に出来る限りのことをしてくれたらしい。持つべきものは顔の広い友人か。
「話は大野から聞いた」
大野の友人である川田さんは、若いながらも江戸屋敷を実質的に取り仕切っている儒者だった。昔からの家臣ではないのだが、何よりも国主とその側近からの信頼が篤い。俺から見れば、他の高官より身近ではあるが国への影響力が強い重要な人物だ。この人さえ納得させることができれば、俺は俺の目的を達することができる。
「しかし解せないな」
上座に姿勢よく座った小柄な青年は、心底不思議そうに呟いた。
「今後のために、京都の情勢を詳しく知りたいから国の許可を得たい。それはわかった。けれど君はまだ、昌平坂で学ぶことが多くあるはずだ。あそこへ入るのが、そう簡単なことではないことも知っているだろうに」
「それでも、国のためにと思いまして」
「嘘だな」
容赦なく斬り捨てて、青年は笑った。
「国のためを思うなら、いっそう勉学に励むべきだ。それくらいのこと、殿に選ばれた君なら理解しているだろう」
返す言葉がない。手ごわい相手だと大野から聞いていたが、ここまでずばりと斬り込む容赦のない人だとは思わなかった。国のお偉い人っていうのは、いらっとするほど遠まわしな言葉を使うもんじゃないのか?
とにかく次の言葉を探して黙っていると、不意に立ち上がった相手が側まで寄ってきた。
驚いて見ていると、膝が触れ合うほど近くに座って顔を寄せる。
「君の本心を聞きたい」
「本心?」
「何のために、誰のために京へ行く。まさか今の京都の状況を知らぬわけでもないだろう。そんな場所へ行こうとするのだから、国のためだけではあるまい」
それなりの立場にいるはずの人間のあんまりな言い方に、思わず問い返してしまう。
「貴方がそんなことを言っていいんですか……?」
「よくない。他言は厳禁だ。私が動くのは国のためではなく、殿と師と友のため」
そう言って、少しだけ視線を逸らした。
「もちろん世の中には国のために身を捧げる人間もいるだろう。けれど多くは違うはずだ。国のためではなく、その国に住まう人のため。中でも己の大切な者のため」
たった一人の人間が、国のために何ができると言うのだろうか。何をしようと言うのだろうか。
「国のためにと簡単に口にする輩の言うことは信用できない。だから本心が聞きたい」
誰かのために何かをしたい。そう思う気持ちは共感できるから。信じることができるから。
「君は何のために、誰のために京へ行く」
その本心は。
「友の、ために」
答えはすでに出ている。理解して、認めている。だからそれを、あとは言葉にするだけで。
「付き合ったのは短い時間です。その短い間に、彼の大切なものを知りました。それを喪った時の、彼の慟哭も知りました。そして彼の覚悟を知りました。その覚悟はあまりにも強く、潔く、けれどどこか幼稚なもので、だから不安を覚えずにはいられなくて――」
「このまま彼を喪ってしまうかも知れないと思ったら、何もせずにはいられなくなりました」
だから京へ行く。自分に何ができるかわからない。何もできないかもしれない。それでも。
一人でいる彼の傍に、隣に立つことくらいはできるから。
「その友が、京にいるのだな」
「はい」
「その友に会うためだけに、京へ行きたいと」
「はい」
どうしようもない我がままだ。たった一人の人間のために、国に迷惑をかけようとしている。もちろん大ごとを起こすつもりはないが、相手が相手だ。こちらが望まずとも騒動に巻き込まれる可能性はあるし、川田さんもそれくらいは承知しているのだろう。大野が古泉についてまったく話さなかったとは考えられないからな。
これで断られたら脱藩しかないなと思いながら答えを待っていると、目の前に座る青年は珍妙な表情を浮かべていた。
「いや、まあ、何ていうか……正直だね君も」
「言えと言われたから答えたのに……」
「それはそうだが。うん、でもその方がずっといい」
楽しそうに笑って、相手は頷いた。
「許可が下りるよう取り計らっておこう。近日中には京都に出立できるよう準備しておくように」
「え?」
あまりにもあっさりと言われて、驚いて思わず聞いてしまった。
「いいんですか?」
「私が君の立場なら、きっと同じことをすると思うからな。それに脱藩されるよりマシだ」
どうやら、何もかもお見通しらしい。
「一応、名目としては遊学兼、京都の情勢視察ということにしておく。高官では入手が限られてしまう情報を、土地の人間との交流で得るとかそんな感じで」
そんな感じでって。随分な言い方だがこれなら現地での行動に自由が利くし、明確にして後々問題になるよりいいのだろう……か?
「とにかく危険なことに首を突っ込みそうになったら、とりあえず国名と実名は名乗るな。偽名を使え。国に迷惑をかけないようにすると約束するという条件付で、許可を申請する」
「そんなんでいいんですか?」
「よくない。特別だ」
本当に、どこまでもきっぱりとした人だ。こういうとろこが国主様やその側近に気に入られたのかもしれない。
上座に戻ってもとの位置に座った川田さんは、そうだと思い出したように言い足した。
「覚悟など、あってもなくても事は起こる。大切なのは覚悟の有無ではなく、事が起こった時にどう対処するかだ。覚悟なんぞ持たなくてもいいから、肝だけは据えておくように」
「はい」
はっきりとした声で応えながら、この人に迷惑をかけるのはちょっと嫌だなと、不意にそんなことを思った。確かに手ごわい人ではあるが話していて気分がいいと感じるし、何より後が怖そうだ。
「お前の国の京都屋敷には三島さんがいる。先に文を出しておいたから、困ったら頼るといい」
だからどうしてこの男は、俺よりも俺の国の人間と親しいのだろうか。
「いやでも川田さんと三島さんくらいだよ」
しかしその二人はどちらも国主様とその側近に信任されている、国のそこそこ重要人物だ。おかげで助かっているから文句は言えた立場ではないが、それでも言いたくはなる。
「お前はどれだけ顔が広いんだよ」
「俺が、っていうよりじい様と父親、あとは若君の影響だな」
江戸で最も有名な学者と、全国を遊学した経験があり若君の学問指南と国許の学問改革を行っている学者と、そんな学者や他の国主たちからその英明を謳われる若君と。いやもう充分だから。それ以上はなかなか無いから。
そんな何度か繰り返したような問答はさておき、荷物を背負った俺は大野と改めて向き合った。
見送りは他にいない。友達が少ないから、ではなく、断ったからだ。名目が何であれ自分のわがままだと認めていたから、盛大に送り出されるのは後ろめたかった。だからここには、すべての事情を知っている大野だけが見送りに来ている。
「ま、俺も近いうちに京都には行くつもりだから。まだこっちで仕事が残っているから今は行けないけど」
「仕事?」
何かしですつもりであるらしい。まだ内緒と言って、そのうちわかるよと笑った。とりあえず彼の動く理由は若君の他に思いつかないので、何かあれば確実に京都まで聞こえてくるだろう。そのうちわかる、というのはきっと、そういう意味だ。
誰も彼もが、結局は国のためではなく自分のために動いている。自分と、自分の大切な者のために。国とは自分たちが所属し、住まう場所であるから、場合によっては国のために動いていることにもなるのかもしれない。川田さんなどはきっと、特にそういう立場なのだろう。大切な人が国主だから、傍目には国のために動いているように見える。
「それじゃあ、行ってくる」
「ああ。古泉によろしく」
そうだ、古泉は何のために動いているのだろうか。国のため、仲間のため、亡き師のため。それとも何か、別の理由のためか。
その問いを会った時に聞こうと思っている項目の上位に加えて、俺は京都に向かって足早に一歩を踏み出した。
九.
秋の京都は一番良い季節だ。町並みを囲む山々の紅葉が目にあざやかで、意味もなく楽しい気持ちになる。誰かのせいで春も夏も充分に楽しむことができなかったから、紅葉の美しさは余計に際立つように感じられた。
江戸に向かう途中で京都に立ち寄ったのは、いつのことだっただろうか。そう遠くは無いはずなのだが、そのときとは雰囲気ががらりと違っているように感じられた。
殺伐としている、とでも言えばいいのだろうか。不穏な感じだ。
「夜道は一人で歩かない方がいい。どうしても用がある時は、国の紋が入った提灯を持ちなさい。気休めだが、ないよりは安心だ」
とりあえず京都屋敷で三島さんに挨拶すると、まずはそう言われた。三島さんは川田さんと反対で、近づき難い雰囲気があるが喋ってみるといい人、という感じの人だ。川田さんは、見た目は人が良さそうだったから…いや、いい人ではあるんだが。
「ああ、でも何か問題を起こす時は手ぶらで行くように」
……やっぱり川田さんの親友だというだけあって、言っていることも同じだった。
結局、京都屋敷の近くにあって国の人間がよく利用しているという料亭で夕食をとったついでに、その屋号が入っている提灯を借りることにした。そこで会合が開かれたことがあるという話は聞かなかったから、変な誤解を招くことはないだろうし、何より主家の紋入りを持つよりは気が楽だ。これから自分がしようとしていることを考えれば。
提灯をぶら下げて、夜の町を歩く。目的は特に無い。到着したその日に目的の人物に会えるとは思わなかったし、けれど何もせずに屋敷にいるのも躊躇われた。もしかしたらと、そんな風に思ったから。
どれくらい歩いただろうか。喉も乾いてきたし、そろそろ帰ろうかと思いはじめたころ、声が聞こえた。普通の話し声じゃない。何か言い争っているような…人数も二人ではなく、三人、四人?
ちょうど細い路地に立っているせいか、声の聞こえてくる場所がわからない。そう遠くはないはずだ。立ち止まって耳を澄ませていると、小さな悲鳴のような声が聞こえた。なんだ、何があったんだ。
不安に襲われてとりあえず走り出す。風に乗って届くのは、密やかな声とどこかで嗅いだような匂い。不意に、あの灰色の世界を思い出す。
音が消え失せている。虫の音も聞こえない、静かな夜。
ここだ!と目星を付けて一番近くにあった角を曲がると、小さな路地には薄闇が広がっていた。
そして、血溜まりも。
「何を、しているんだ?」
思わず言ってしまってから、とんでもなく間抜けな問いだと自分でも思った。何をしているかなど見ればわかることだ。血を流して斃れている男と、抜き身の刀を持った男が二人。一人の刀は、薄闇の中でもよく見れば血に濡れているのがわかる。
男たちは顔を見合わせて頷き、刀を構えた。
ちょっと待て。俺も当然のこととして腰に二刀を佩いてはいるが、腕に自信が無いどころか竹刀の素振りしか満足にできないんだって聞いてくれないよなこんな話は……。
じりじりと間合いを詰められて、提灯を持ったまま間抜けに後ずさりをする。刀を構えるどころか、鞘から抜く余裕も無い。目撃者は消さなきゃいけないよな。うん、それはわかる。わかるがもうちょっと話し合いの場を持たないか互いに利があると思うんだ…!
そんな俺の心中を、たぶん知らないのだろう男の一人が刀を振り上げる。その切っ先が真上に上がったのを、ただ眺めることしかできない。こんなところで終わるのか?終わっちまうのか?
いや、だめだ。
「まだ古泉に何も聞いてない」
思わず零れた声は小さな呟き程度のものだったと思うのだが、思った以上に小さな路地に響いてしまった。だからどうしたということもないのだが、言葉にしたらかえって肝が据わったようで、俺はやっと動くことを思い出した。
とりあえず提灯を相手に投げつける。
「……ッ!」
飛んできたものを払うのは人間の習性であり、それが火のついた提灯であれば尚更だろう。男は提灯を斬りつける。火が消えた一瞬、その空間は真の闇に満たされる。その瞬間だけが俺の好機だった。
男たちに背を向けて走り出した俺に「待った!」と声がかかったのは当然のことだが、この状況で待てと言われて待つ馬鹿はいない。
―――ん?でも今の声は、
「その人は僕の友人です。刀を納めてください」
聞きなれた抑揚の声と共に路地の奥から現れたのは、薄闇の中でもわかる、見慣れた人間だった。
振り返った男が、なんだと小さく呟いて刀を鞘に納める。
「古泉って、やっぱり君のことか」
「気付いていたならどうして、」
「仕方ないだろう。気付いた瞬間に提灯を投げてきたんだ」
「……彼のことは僕が引き受けます。お二方はあちらを」
顔見知りではあるのだろうが、あまり親しげな様子ではない。仲間ではないのだろう。立場上、手を組んでいるだけと言った感じか。
そんな風に冷静に監察しているが、実は腰が抜けてその場に座り込んでいる俺だった。頂点に達していた緊張感がいきなり失せて、身体中から力が抜けてしまった。
「大丈夫ですか?」
そう言って手を差し伸べてくる男が浮かべているのは、困ったような微笑。それを見て、余計に安堵してしまった。手を伸ばす気力すら起きない。
「古泉、だよな」
「お久しぶり、ですね」
偶然にしては出来すぎのような気もしたが、偶然なんてそんなものなのだろう。
とにかく数ヶ月ぶりの再会だった。
十.
ついてきてくださいと言われて、黙ってその背を追って歩く。これも何だか久しぶりな感じだな。
あの時の行き先は大きな屋敷の壁に囲まれた雪景色だったが、今夜たどり着いたのは静かなせせらぎが聞こえる水路の側だった。
「どうして、あなたがここにいるのですか」
振り返っていきなり問うて来た古泉は、笑っていなかった。無表情を装っているようだが、怒っているようにも見える。
「京都屋敷に着いた後、散歩に出たら、」
「そうではなくて」
「お前を追いかけて来たからに決まってるだろうが」
何を今更、と。憮然としながら答えれば、意外にも古泉はひどく驚いたような表情を浮かべた。これを見るのも三回目だな。俺はどうやら、こいつを驚かせてばかりいるようだ。
「僕を、ですか?」
「他に誰がいるって言うんだ」
生憎、京都に知人などいない。俺の交友関係は大野と比べるまでも無く、そんなに広くないんだ。
さてと、無事に会うことができたし、こいつに聞きたかったことは山ほどある。あんまりな状況での再会だったのでうっかり忘れそうになったが、これだけは聞かなければなるまい。
「どうして、俺に何も言わずに姿を消した」
あの、春の雪のあとに。
こいつは俺に言うべきことがあったはずだ。俺はそれに言葉を返さなければならなかったはずだ。俺は高熱に魘されながら答えを出したというのに、こいつは何も言わずに姿を消しやがった。
本当だったら一発殴ってやりたいところだが、今はそれよりも質問の答えを聞きたい。
「古泉」
夜の静寂を破らぬように、静かに名を呼ぶ。目の前に立つ相手の顔にはもう、笑みも怒りも驚きもない。
「僕は……」
困り果てたような表情で呟いた後、古泉はゆっくりと目を閉じた。
「あなたをこれ以上、巻き込みたくないと思いました」
「だから、何も言わずに消えたのか」
「そのとおりです」
瞼を上げる。けれど視線はこちらに向けられないまま、どこか別の場所を見ている。
「あなたは、寒椿と、言いました。僕たちの覚悟は、寒椿の色だと」
確かに言った。踏みにじられても尚赤い雪上の花は、彼らの覚悟に似ていると。
「それが、とても嬉しかった。距離を置いて冷静に観察しているあなたが、そうやって認めてくれたことが意外で、嬉しくて。それだけじゃない。先生を知らないあなたが、僕たちが尊敬する相手だからと決して先生を愚かだとは思わないと言ってくれた。先生を喪ってどうしようもなくなった時、あなたは傍にいてくれた。だから、」
―――喪うことが恐くなった、と。
かろうじて聞こえるような小さな声で古泉は言った。
「だからこれ以上、あなたを危険なことに巻き込みたくなかった」
それで何も言わずに姿を消したのか。俺を騒動に巻き込まないために、危ないことにつき合わせないために。
だけど古泉。俺はここに来てしまった。これからもっと危険な場所になってゆくのであろう、この京都に。
お前のために。
「俺を巻き込みたくなかったのなら、最初から教えなければよかったんだ。あの春の雪の日、あの場所に、お前は俺をつれて行くべきじゃなかった」
まだあざやかに覚えている。頭上に広がる灰色の空と、不思議に無音の景色と、雪上にぶちまけられた鮮血の赤。
そんな、こいつがいる世界を知らなければ、俺はこんな場所まで来なかった。知らなければ関わりようがないからな。そして世界の存在を俺に教えたのは古泉自身であって、他の誰でもない。
「お前は俺にあの景色を見せることで、世界を共有したかったんだろ? そう感じているのは、俺の自惚れでしかないのか?」
「……そこまで気付いていながら、あなたは逃げないのですね」
「逃げようと思ったさ。何度も」
でも、できなかった。
そんな世界にこいつが一人でいるのかと思ったら、追いかけずにはいられなくなってしまった。
古泉にだって、仲間はいる。仲間と呼べなくても、同志と呼べる者たちもいる。けれど、それでも俺にはこいつが一人でいるように見えてしまった。がらんとした何もない部屋で、一人で座っている姿を知ってしまったからか。それとも、愚かだとは思わないと言ったあとの、どうしようもなく嬉しそうな笑みを見てしまったからか。
きっかけは、よく考えればいくつもあったように思う。
「巻き込みたくない、なんて、今更なんだよ」
何故なら俺は、彼が一人でいる世界を知ってしまった。彼があの春の雪を見せた意図を察してしまった。それだけでなく、抱き締められた時に感じた吐息の熱の意味にも、気付いてしまっていた。
その上で、答えを出してしまったから。
「俺をこんな場所まで追いかけさせた責任は、きっちり取ってもらうからな」
今度こそ、逃げることは許さない。お前にも、自分にも。
視線を逸らさずまっすぐにそう言うと、相手はゆっくりと手を伸ばしてきた。こういう時に限って、相手の顔は影になってしまってよく見えない。
伸ばされた指が手首に触れて、少し躊躇う素振りを見せる。けれどすぐに、しっかりと掴まれて。
引き寄せられ、抱き締められた。
体格にそれほど違いはないはずだが、悔しいことに多少の身長差があるせいで俺の身体は古泉の腕の中へ簡単に納まってしまう。
「逃げないのですか?」
「逃げていいのか?」
冗談交じりにそう言えば、古泉は抱き締める腕に力を入れてきた。おい、ちょっと、余裕がないんじゃないのか?無駄に爽やかに微笑んでいるいつもの古泉青年はどこへ行ったんだ。
「本当はずっと心細かったと言ったら、あなたは笑いますか?」
「そんな気がしたからここまで追って来た、って言ったらお前は怒るか?」
「いいえ」
強く強く抱き締められて。そうして、耳元で名を呼ばれて
応える代わりに相手の背へゆっくりと両手を回すと、古泉は小さく溜め息を吐いた。
「一番恐いのは、あなたのためになら何でもしてしまいそうな自分自身かもしれません」
真面目な声でそんなことを言うから、思わず笑ってしまう。
「そりゃ、確かに恐いな」
再会したら聞こうと思っていた問いのひとつは、どうやら聞くまでもなかったようだ。
自分で言うのも何だが、俺は自分をそう賢い人間だとは思っていない。天才とも秀才とも縁遠いし、ましてや奇才であるはずもなく、大層な努力家でもない。
だから危険だとわかっていても、大した覚悟も無いのに平気で飛び込むことがある。天才でも秀才でも奇才でもないが、自分が望むものとそのために必要なことくらいは理解できる頭を持っているつもりだ。賢くなくてもいい。それで充分。
この先どうなるのかなんて誰にもわからない。未来などわかるはずがない。それでも俺は、この男の隣にいるのだろう。この先どんなことが起きたとしても。
それが俺の、踏みにじられても変わらない色を持つ唯一の覚悟だった。