珊瑚は海の底 - 1/4

稲葉江×笹貫の夏の馴れ初め。
くるっぷから再録3本+書き下ろし後日談1本。

2022.8.31発行 詳細:紫雨文庫・OFFLINE


 

 

 

 天下にその名を轟かせた出雲阿国。彼女が率いる歌舞伎の一座を結城秀康が伏見の城に招いたのは、異母弟である徳川秀忠が将軍家を継いだ頃だった。
 秀康は彼女の芸を絶賛し、水晶の数珠ではもはや天下の女に相応しくないだろうと、珊瑚の数珠を贈ったという。

 ──天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候は此の女なり。我は天下一の男となることかなわず──

 

 

一、

 偵察から戻った小夜左文字と堀川国広の報告を歌仙兼定の隣で聞いていた同田貫正国が、ふと笹貫に視線を向けた。
 起伏のある深い山中の、雨上がりの早朝。あたりを覆う白い朝靄は、もうしばらく消えないだろう。
「あんた、釣りできるか?」
「ん? できるよ」
「よっしゃ、やろうぜ!」
 ギラギラと目を輝かせる同田貫と「お、いいねぇ」と笑ってみせた笹貫に、隊長である歌仙がわざとらしく大きなため息を吐いた。
「そんな、ちょっと万屋に行こう、みたいな気軽さで誘うのはやめないか」
「だって今まで出来なかっただろ」
「同田貫がいればできただろう?」
 不思議そうな笹貫の声に、それがなぁと同田貫は歌仙の顔を見る。その意図に気が付いたらしい歌仙がふいっと目を逸らしたので、堀川と小夜は顔を見合わせてふふっと笑ってしまった。
「釣り役が足りなかったんだよ」
「あー、なるほどね」
 同田貫の答えに、特に追及することなく笹貫も納得する。オレたぶん得意だと思うよ、と笹貫が笑うその隣で、いつもどおりの渋面を浮かべている男が内心で困惑していることに誰も気が付いていなかった。
「……釣り、とは」
「ああ、すまない稲葉江。これは釣り野伏せ、といって――説明するよりやってみせた方が早いか」
 釣りに失敗しても何とかできる地形と状況と戦力差、まあ一度やってみよう、と隊長が決断すればあとは早かった。
 地図を広げた同田貫が選んだ決行地点に、現地を偵察した小夜と堀川が補足を入れ、笹貫の助言を聞きながらざっくりとした配置とルートを決める。これでどうだ? と同田貫が顔を上げれば、問題ないだろうと歌仙が頷いた。
「釣り役は笹貫と同田貫。稲葉江は堀川と、お小夜は僕と一緒に野伏せ役だ。野伏せ役は味方の合図が出るまでじっと待機して、目の前の敵に突撃する。そう難しいことではないよ」
「その合図は」
「それくらいなら僕にも出来るさ」
「おう、任せたぜ」
 歌仙の肩を軽く叩いた同田貫の隣で、適当なところでよろしく、と笹貫も笑う。
 ──その笹貫の戦いぶりは、稲葉の目から見ても見事なものだった。
 本来はこのような少人数で行うものではない。刀剣男士として普通の人間以上の力があり、敵が寡兵であるとわかっているからこそできることだ。
 朝靄の中で敵の一軍と会敵した同田貫と笹貫が、すかさず猿叫を上げて敵軍に突撃する。真っ先に槍を仕留め、敵が崩れた陣形を立て直すまで大暴れしたところで即座に退却に転じた。
 そのまま野伏せ役が隠れ潜む予定地点をまっすぐに目指すようなことはせず、竹藪や倒木に身を隠し、奇襲をかけつつ逃げ回ることで、味方の元へ必死に逃げ込もうとしていると敵に思い込ませる。
 稲葉たちから実際にその姿が見えたのは、彼らが予定地点までかなり近づいてからだった。特に笹貫の、普段の彼の様子からは想像できない、多勢に無勢でもまったく怯むことのない突撃の雄々しさに目を奪われる。
 もちろん、それだけなら稲葉も劣らぬ自信がある。しかしそこから逃げに転じる判断の的確さと臨機応変な柔軟さに関しては、到底自分には真似できそうにない。大まかな移動のルートは事前に決めていたが、それでも実際の動きは同田貫と笹貫がその場その場で考えて判断している。
 さすがですね、と小さく聞こえたのは隣で合図を待つ堀川の声だった。歴戦の脇差と聞いている彼でもそう思うのかと感心したところで、対岸の土手からスッと手が上がった。

 

「というのが、先日の戦だ」
「それはまた……たいへんでしたね」
 稲葉江の話を聞きながら、急須にお湯を足していた篭手切江が苦笑する。細川家と稲葉家を行き来していた経歴を持つ彼はもちろん何の話かわかっているし、説明を早々に諦めて実戦に切り替えた歌仙のことも容易に想像できたのだろう。
「なあ篭手切、釣りってなんだ?」
 首を傾げている豊前江から茶菓子の箱を受け取って、篭手切は頷いて口を開いた。
「釣り野伏せという、特に薩摩の島津家が得意とした戦法の事です。釣り役と呼ばれる小部隊が予定地点まで敵軍を誘いこみ、待ち構えていた野伏せ役が敵の左右から襲い掛かり、敵の三方を取り囲む。言葉で説明するにはそれほど難しいものではないのですが」
「誘い込んでいると気づかれて警戒されてはいけない。目的地点にたどり着く前に倒れてもいけない。なるほど、釣り役が難しいんだな」
「言葉そのものは我も知ってはいたが……」
 刀であった頃も人の身を得てからも、実際に遭遇したことはない。そして、あんな風に雑に誘って行うようなものではないということはよくわかった。
 ──顕現時期が近いことで稲葉の隣室に入った笹貫とは、最初の挨拶程度でしか言葉を交わした覚えがない。のらりくらりとした、軽薄そうにすら見えるその言動が稲葉江にはとても理解できず、意識的に距離をとっていたというのが実情だった。
 ところが戦場で目にした笹貫は、聞きしに勝る薩摩隼人、島津の刀だった。己の認識を改めなければならないと稲葉江が思うほどに。
 しかし、顛末を語りながらふと思い出したことがある。
「同田貫に視線を向けられた歌仙兼定が、黙って目を逸らしたのは何故だ?」
「お、それはわかるぞ。『知っているからといって誰でも出来るわけじゃない。こいつもそんなに器用じゃねぇし』『わかっているから改めて言わないでくれ……』だろ?」
「りいだあ、物まねお上手ですね」
「俺もここに来たばかりの頃は、あの二人の部隊でだいぶ揉まれたからな」
 この本丸における新人育成のひとつだった。基本的には遠征任務がメインになるが、政府からの特殊な任務がない時期には審神者の許可を得た歌仙が適当な編成を組み、新入り数名を連れて各地の戦地に出向く。その時に選ぶことが多いのが気心知れた仲である小夜左文字と、同田貫正国だった。
「そういや、あの二人は長ぇのか?」
「歌仙さんはこの本丸の初期刀ですし、同田貫さんも最初期からいらっしゃると聞いていますね」
「付き合いが長いと、言葉がなくともああして通じるものなのか」
 眉を顰めて怪訝そうな──不思議そうな稲葉江の様子を見て、思わず視線を合わせた篭手切と豊前は笑みを浮かべる。
「せんぱいもすぐに、わかるようになりますよ」
 そうして差し出された湯呑みから立ち上る湯気を見て、人の身とはそういうものか、と稲葉江は呟いた。